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涙涙のオールドタウン

ダブリンに初めて旅行したのは、確かもう、7年くらい前である。ロンドンからの最終便に乗り、到着したのは夜の11時前。イミグレでさんざん「何しに来た」と聞かれ、イギリスのビザを見せたら、かなり疑り深い態度だったのに、ころっと「ようこそ、ダブリンはとてもいいところだから楽しんでください」みたいな態度を取られ「?」という感じでゲートから出たら、ちょうど目の前で中心部に行く公営バスが出てしまった。うげ、なんだよという感じで、タクシーを捕まえ、事前に紙に書いてもらった連れが滞在している家の住所を渡した。(女性の一人旅で普通の観光ビザだと無資格で観光ビザで彼氏の家に居座って不法労働するアジア人、というイメージがあるらしく、結構面倒臭いことがある。そういう時にイギリスのビザを見せると「うちの国には居座らないわね」と納得してくれ、解放される。)

運転手はブラックの人だった。おとなしい人で「アイアイサー」みたいな感じで、車はすぐに目的地についた。連れが外で待っていて、助手席の窓を開けさせ、お金を払ってた。その間に、下りようとしたら、「下りなくていいよ、パブへ行こう」と言ってまたそのタクシーに乗った。

連れは普通にまた、お金を払って、パブへ入っていった。しばらくして、「お前、タクシーの運転手覚えているか?」と聞いてきたので、「何かあったの?ブラックの人だったよね」と言ったら、そうだよ、おれたちが子供の頃はブラックのタクシー運転手なんかダブリン中探してもいなかった。だからすごい今びっくりしてんだ、と言われた。

ダブリンもイギリスの田舎の方もそうだが、ロンドンから離れれば離れるほど、民族の数はどんどん減っていく。ロンドンはいろんな国から来た、さまざまな人種のいる街だが、ロンドンから外れればそうそうたくさんの民族はいない。ダブリンだってだいぶ増えたとは言われているが、ロンドンを見慣れた身だと単一民族の街に見えたりする。

そして、昔にさかのぼればさかのぼるほど、まあ、白人しかいない、いてもちょっとだけ黒人の人達、そしてインド系がちょっといたくらいかな、みたいな感じになっていく。

うちの近所に時々立ち話をするおば様がいらっしゃるが、連れ合いは黒人の方である。明るくて、優しそうなご主人、そして気さくなおば様で好きなカップルである。昔留学生の受け入れをやっていて、日本人が一人下宿したが、その子がとてもいい子で、その子は30年前に留学したというのに、未だにカードのやり取りをしていると言っていた。その子が良すぎたので、その子のあとはもう、留学生の受け入れをしていないと言っていた。そのおばさんがフェイスタイムでその日本人の方とお話していた。日本人の方は「おじさんとおばさん、本当に仲が良くて、理想の夫婦像だったのよ」と言っていて、なんかわかる、という感じだった。

そのおばさんは45年前におじさんと結婚したが、その際、おばさんの実の母は黒人と娘が結婚するというのがどうしても受け入れられなくて、結構大変だった、みたいなことを言っていた。お母さんは人種差別はいけないのはわかっていたが、自分の娘がそういう選択をしたというのが受け入れられなくて、大変だったという。そういう中でもご主人は、気長にお母さんに接してくれて、助かったとおばさんは言っていた。

まあ、昔は白人と黒人が結婚するのもかなり大変だったというのも聞いている。そして、そこから生まれた子もかなり、いろいろ大変だったと聞いている。

アイルランドのダブリン出身のミュージシャンと言えば、今だと誰になるのだろう。まあ、たくさん名前が上がると思うが、ダブリン出身となるとU2が一番の出世頭か。まあ、U2の前は、ブームタウンラッツで、その前はフィルライノット率いるシンリジィなのか。

日本にまだいたころ、一枚だけCDを持っていた。確かJail breakだったと思う。ロックなのか、ファンクなのか、ソウルなのか、ハードロックなのか、いまいちつかめないバンドで、そこまで聞きこんだバンドではない。ベースがごりんごりん来る割には聞きやすくて、甘い歌声でとっつきやすい感じ、でもなんか、そのころの私にはひっかからなかったバンドだった。そのころの私の愛聴盤はヴァンモリソンのアストラルウィークス、チュペロハニーあたりだった。アイリッシュと言えば、私にとってはヴァンモリソンだった。

しかしだ、ダブリンでそれを言ったら「バカ野郎、あいつはノーザンアイリッシュだから、ダブリンじゃねえよ。」みたいな扱いで、シンリジィの方が格が上、ヴァンモリソンは格が下の扱いになっていた。ダブリンは、ムーンダンスではなくて、ダンシングインザムーンライトなのであった。

偉大だったのね、という感じである。ダブリンを訪問しなければ、このバンドにそこまで関心はなかったであろう。まあ、バンドが偉大というよりは、ダブリンにとって偉大なのは、このバンドのリーダーであるベーシスト兼ボーカルのフィルライノットである。

フィルライノット、外見を見ればすぐわかるが、ブラックである。ブラックというよりはブラックと白人のミックスである。お母様が白人でダブリンの出らしい。そしてお父様はお母様が出稼ぎに出ていたマンチェスターに流れついた黒人で、その二人の間に生まれたのが、フィルである。二人は未婚で、フィルの母は、確かであるが、フィルをあの頃のアイルランド人の未婚の母ならだいたいたどる道であろう、この手の母親を預かって内密出産させる修道院で産んだという話を聞いたことがある。本当だかどうだかはわからないけど。で、まあ、未婚で人種が混ざっている子供を産んだとなると、母一人、子一人だと生活がマンチェスターでもままならならず、落ち着いた生活環境を与えることができないと判断した、母は、学齢期になったフィルをダブリンの自分の両親の元へ送る。フィルはおじいさんとおばあさんにダブリンで育てられた。教育は全部、ダブリンで受けていたという。

学校を終えてから、音楽の道へ進んだ。最初は泣かず、飛ばずで、シンリジィにたどり着くまでに結構時間がかかったらしい。ご本尊はバリバリのロック志向だったとどこかで聞いたが、売れたのは、アイリッシュフォークやトラッドをロック調にアレンジした曲で、最初にチャートに入ったというか、はねたのは「ウィスキーインザジャー」である。

この曲、アイリッシュパブでジュークボックスのあるところにいれば、必ずかかる曲である。というか、ラジオより、パブのジュークボックスでしか聴いたことがない。(あとメタリカがカバーしている。)

シンリジィはこの曲で上昇気流に乗って、浮き沈みはあったものの、アイルランド、イギリスを代表するロックバンドにまで登りつめたが、頂点に立って間もなく、フィルは36歳の若さでオーバードーズで亡くなる。なくなったのは86年、もちろん私はリアルタイムでは知らなかったし、ここまでのフィルについての話はダブリンの知り合いの人達の受け売りである。

シンリジィの曲はそのあといやというほど聴くことになった。なぜなら、通勤途中の道にあった「フィネガンズウェイク」というパブ(アイリッシュはジェイムズジョイスは読んだことないが、なぜかパブの名前には彼の作品名をつける)によると、必ずシンリジィの曲を固め打ちしてかけるおじさんがいたからである。シンリジィおじさんと私は呼んでいた。シンリジィおじさんは時々、骨休めでシンリジィをカバーしているアーティストの曲をかけた。メタリカがカバーしてるのをそこで私は知った。その中で、ザコアーズというアイリッシュトラッドフォークよりの女性ボーカルグループが、フィルライノットのソロアルバムに「old town」という曲をカバーしているのを知った。

そして、なぜか、どうしてもこの曲がかかるともうなんか、泣けてしまってしょうがないのである。そして、ご本尊の出演しているこの曲のビデオを見るともう涙涙である。なんとなく若いうちはわからないというかちょっと甘めでいやだったが、甘くてちょっとさみしそうな風貌、ちょっと哀愁溢れるボーカル、明るくて優しくて面倒見がいいけど酒と女と薬はやめられなかったという話とか、なんか甘えん坊でロックスター然としたキラキラした彼の風貌の下に、潜んでいるさみしさみたいなのが透けて見えるような気がするのと、あの頃のダブリンで、黒人差別がものすごいあった中で人には言えない苦労しただろうなあ、とかそんなこと考えてしまうともうダメなのである。

歌詞は、若い男が失恋して頭おかしくなって町をさまよっている、みたいな歌詞である。なんというか、最初の字余りみたいなメロディの歌詞の載せ方、わかりやすいサビ、ちょっと哀愁あるメロディ、もうなんか一発で「シンリジィまんまやね」とわかる曲である。

そして、もっと涙を誘う、エピソードがある。

連れの親戚の一人が郵便配達である。フィルライノットが亡くなって間もなく、郵便配達の仕事で、その人が、フィルライノットが生まれ育った家に荷物を配達した。荷物の受け取りにフィルのお母様が出てきたという。「この度は、どうも、私はあなたの息子さんの音楽が大好きでした」と言って荷物を渡したら、そのお母様が「あなた、いつ仕事終わるの?」と声をかけたという。「おたくのが終わったら今日はあがりです」と言ったら、お茶入れますから、上がってください、どうぞ、と言われたという。そして、彼を応接間に通し、お茶とビスケットを出し、レコードをかけてくれ、フィルの子供のころの写真やら、思い出の写真やグッズなどを見せてくれたという。最後に「息子を応援してくれてありがとう」と言って見送ってくれたという。

そして、どうもこのようなもてなしを受けたのは彼だけではなく、フィルの生まれ育った家を詣でに来たファンを家にあげ、お茶を出して思い出話をしていたという。ダブリン中、このようなもてなしを受けた人は一杯いるという話だった。

そして、このお母様は2019年になくなったが、施設に入るまではそうやってファンをもてなしていたという話を聞いた。ファンを家にあげてしまうので、年老いたお母様だといろいろ危険がある、家族はファンを家にあげたり、家の外でファンと長話などをしないように頼んでいたが、息子のファンのためには、そういう労は惜しまなかったという話である。まあ、この人は自分の実家に子供を預け、いろいろなところに出稼ぎに出てお金を稼いでいたということで、子供に十分な時間を注げなかったという後悔もありそういうことをしていたのではないか、という話も聞いたことがある。あと、息子が命を落としたドラッグ撲滅運動も結構やっていたという話である。その集大成が2005年に建立されたグラフトンストリートにある銅像である。今やダブリンの新観光名所である。

お亡くなりになって37年、未だにイギリスやアイルランドではどこかで彼の曲、シンリジィの曲がかかっている。たいしたもんだと思う。

命日が1月4日なので冬の寒い時期になるとなんとなく、フィルライノットを思い出し、私もジュークボックスなどがあれば、オールドタウンをかけてしまう。オールドタウン、いい曲だよね。






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