季節の彩り野菜と25条のカレー
『カレー食いてぇ』
無性にカレーが食べたくなった時、頭に浮かぶのはココイチのフライドチキンカレーや近所のネパールカレー屋さんのナンカレー。せっかく外で食事を食べるなら、お気に入りの店にいきたくなる。
しかし本当に自分が求めているのはそこまでのクオリティだろうか。今俺の身体は『カレー体験の記憶』が薄れつつあり、『カレー感覚の実感』が枯渇しているから無性にカレーが食べたいから自分の知る中で上位に位置するカレーを食べたいと思っているが、本当に俺は今そのカレーを食べないと満足できないのだろうか。
棚に置いてあるカレー味のカップヌードルを3分後に食した自分。
食後、すっかり『カレー欲』がなくなっていることに絶望する。
俺の欲望や願望なんてこの程度なのだ。自分の人間としての浅さに絶望しながらも、ココイチでカレーを食っていたかもしれない世界線に想いをめぐらし、その世界線の自分よりも総資産が数百円多い現世界の自分を戒める。
『お前は本当にカレー風味ならなんでも良いのな』
別世界のココイチから、蔑む声が聞こえる。
目指せ世界一
お腹が空いたから買い物に行く。そうなると必ず言われるのが『空腹でいくと余計なものまで買っちゃうよ』である。
人間の満腹感と食の充実感が一定のラインを下回って発生する『空腹感』は、人を狂わせる。思わぬ新商品との出会い。普段よりも1ランク良い品物への奮発。現状の胃袋状態からの未来の過大予測。
そうして人類は『ついつい買い過ぎてしまう』行為を繰り返している。
もしも俺の『カレー満足指数』が100を割った時にカレーが食いたくなるのだとしたら、センサーが敏感だとしたら99となった瞬間にカレーが食べたくなる。無性にカレーが食べたくなる。
100を割ったカレー指数の状態で正常な判断はできない。だってそれはある種の禁断症状であり、まともな理性の上でカレーを評価することなどできない精神状態だからだ。
だからカップヌードルのカレー味でいいのに、ココイチに行きたくなってしまう。カップヌードルの『+5』でカレー指数は最低値を超えるのに、ココイチの『+15』があまりに魅力的に思えてしまうのだ。
『ココイチ食えば良いじゃん』
そうなのだ。そんなこと考えずにココイチを食えば良いが、それは適切な措置なのか甚だ疑問が残る。
妥協は恥だが実利あり
世の中に溢れる『類似品』で味わった経験は『実体験』であるはずなのにどこか『仮想体験』のような様相を呈す。
本当はスタバのコーヒーが飲みたいが、今月は貯金すると決めたのでコンビニのカフェラテで我慢するとか。本当は星野源と付き合いたいが、自分は新垣結衣ではないので星野源っぽい彼氏と付き合っているとか。本当は明日花キララといちゃつきたいが、自分は一般人なので似た顔のギャルと一夜を共にするとか。
妥協と取られても仕方ない類似品で、人は枯渇した最低ラインとの差を補填して生きている。
それが悪いこととは全く思わない。金がないからコンビニのカフェラテに『コーヒー感』を求め、自分がポッキーを食べる一般人だから塩顔男子に『星野源感』を求め、自分が絶倫ではないからギャルに『明日花キララ感』を求めるのは『妥当』であり『適切』である『身分相応』であるように見える。
人は最低限の基準を割って枯渇した精神状態に陥った時『理想』を求めてしまいがちだ。
しかしそんな時こそ割ってしまったラインをわずかに超えるくらいのもので満足できることも才能のうちであると思う。
『健康で文化的な最低限度の星野源』
それが隣にいる塩顔男子なのであろう。
最後に
健康で文化的な最低限度のカレーは、マックスバリュの75円のレトルトカレー。健康で文化的な最低限度のハンバーガーは、マクドナルドの100円のハンバーガー。健康で文化的な最低限度の星野源は、塩顔で穏やかな笑顔の同僚。
そんな風にして、憲法25条では保証されない最低限度を自分の力で保証しながら生きる。
それは『妥協』ではなく『妥当』だ。
勉強しなかったから大学受験に失敗し、酒を飲み過ぎたから肝臓を悪くし、プレゼントをケチったから彼女と喧嘩し、浮気をしたから振られるのだ。
人と人との関係性も『健康で文化的な最低限度の』付き合いをまずは目指すべきだ。
① 平等権:自分も相手も同じ人間であり、自分だから許されることもなければ相手だから許されないこともない。特別な補正はポジティブな意味でだけ適用する。
② 社会権:2人以上の人間が集団を形成する以上、双方が人間らしい扱いをされなくてはいけない。1人の人間として存在していることを互いに認知して初めて関係性は成り立つ。
③ 参政権:2人以上の人間が携わる判断には双方の意見が尊重されるべきであり、そもそも参加する権利を持たないという差別が起こらないようにする。
④ 自由権:1人の人間として生きている以上、個人の自由は尊重されるべきである。自己責任で生きるならば、選択や表現など様々な自由を前提に関係性は成り立つ。
⑤ 請求権:2人以上の人間が関わる以上、互いに対して損害が発生する可能性は否めない。その時に互いの関係のバランスを保ち権利を守るために何らかの見返りを求めるのは至極真っ当なことである。
日本という国に生まれ、社会という科目を勉強し、それでも日本国憲法を読んだことも、25条に記された基本的人権について考えることもなく生きている大人たち。
多くの有識者が時間をかけ『国』という民族の最大規模群に包括的に適用可能な憲法の考え方よりも、たった数十年生きた自分の倫理規範に従って生きる大人たち。
生き方とか理念とかポリシーとか、個人の世界観に依存する倫理を提唱する前に、まずは広辞苑を読んで言葉を知り、日本国憲法を読んで国の掲げる規範を学び、聖書を読んで異文化への理解を深めたら良いのに。
今日もビジネス書を流し読みしてスキルアップを実感する大人がいる。
帰り道にコンビニのコーヒーを買い、家に帰りレトルトカレーを食べ、有名人激似系のAVを見て自分を慰める。
『健康で文化的な最低限度の人生でいいのか?』
最低保証は、高く飛ぶための基盤だ。着地した地面が今よりも低くはならないからこそ、人は高く飛べる。
いつか本物を手に入れるために、本物になるために、今は健康で文化的な最低限度の日々を送ろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?