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「師」である人に恵まれる、とは?


別に何かを学んだことなんかなくっても
みんな学校に行ったことあるから

先生との相性

ってなんとなくわかるよね

みんな生まれ持った性質があるから
その組み合わせが

心地よいか

ふん、まぁ…

って思うかの「差」
程度のものね、本当のところは


「私」っていう存在とは

かけ離れていて

それを損なってしまう関係は

時折魅力を湛えて微笑むから
実際トリッキーなんだけど

それが全くない人生ってのも

本当は学ぶチャンスをすっ飛ばすことにも
なってるかもしれないからね

ただ
重傷を負ってしまうこともあるから
侮れないけれど…
傷は必ず癒えるからね

なんでこんなことをいきなり
っていうと

そりゃ私にも

「てやんで〜」
って言いたくなる先生っていたからで

その呪いを解くのは

結構大変だったりもするからだけど

それだけじゃなくってね

何故北米の音楽教育で

「pedagogy 」

がかくも信仰され

「pedagogue」

と名乗る人たちが
後を絶たないか

やっとわかった気がするから


普通に楽器習ってると
楽譜の読み方や
楽器の弾き方って

教えてもらうけど

それを実行する
「身体」については

普通習わないよね

体のどっかを使うから
その部分については
なんか言われるけど

「痛いんです」

が通常モード

これってスポーツの
筋肉痛とは

徹底的に違うってことは

誰も言ってくれない

最近はその辺も進んできてるから
体について

教える人も
習う人も

増えてきてるよね

いい傾向だと思う

でも

その体が

どうやって動いてるのか

なんで動くのか

誰が動かしてるのか

まだまだ繋がってないと思う

これが

「プロの(つまり演奏でご飯食べてる)ピアニストは
まともな先生にはなれない(≡弾けても教えられない)」

という都市伝説になる


幸か不幸か
私が習った先生達は
何方も皆ピアノの演奏もできる人ばっかりで

世界の舞台を股にかけたって意味ではなくてね

プロを目指して汗水流す学生も

ピアノはじめまして!
のお子様も

まるっと教えられる人たちばっかりだった

そのせいで

私の中では

ピアニスト≠ピアノ教師

って図式が全くなかったのね

だからこっちへきて

負傷する人の数にもびっくりしたけど

負傷したから
有名な 「piano pedagogue」のところへ
習いに行って

さらに負傷した

ような話を聞くと

何故にピアノの上手い人のところへ
行かないの?

って本気で不思議に思ってたのだけれど

この「ピアニスト先生不可」説の根の深さが

どこからくるのか

全くわからなかった

それがねやっと解けたよ
まぁ大部分の人にとっては
大したことじゃないと思うけど

それはね
脳のことを知ると

よくわかってくる

人って
人の体って

凄くって

慣れた動作は
意識しなくってもできるのね

だから暗闇の中でも
慣れた場所ならまず歩ける

なんじゃ、それ?

って思うでしょう

じゃぁね、超絶技巧なピアノ曲
練習あんまりしなくても弾ける人ってのは

その動作が

本能レベルで

わかっちゃうから

つまり

考えなくってもできるってこと

躓いて転けそうになった時
どうやって転ばなかったか

いちいち順序立てて

説明できないのと

おんなじ

それ、
誰かに教えられると思う?

考えなくてもできることを
言語化することの

難しさ

だから上手いピアニストは
教えるのが難しい

考えなくてもできることを

考えてもできない人に

教えるわけだからね

それは
教育論を学べば解決する

ってことじゃないのは
わかるよね

自分の無意識を

いかに意識化するか

その手順を
学ぶ必要があるってこと

これは結構大変よ

自分の動作を100%
スキャンし続けることって

トレーニングが必要

そしてそれを

誰が聞いても分かるように

言語に置き換える

ある作品に対する
演奏家の想いを

100%言語化できないのと

同じ

だから

ピアニスト≠良いピアノ教師

ちょっとは本当だけど

全部が真実ではないってことね

音楽は紙の上の空論ではないから

それを実践できる人の
扉を叩くのが

まず第一歩だと思うよ

そして自分で探し当てることができるからこそ
師に恵まれる、んだよ

それは自分の出した疑問に
自分で答えられる能力だから

まずは自分で考えてみよう


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