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『どうせ死んでしまう……』を読んで

―――――だったらなんなんだろう。


この度、『どうせ死んでしまう……』中島義道著。角川書店。2004年。を読みました。

 人は勝手にあるとき生まされ、あるとき勝手に死ぬ運命にある。どうせ死ぬならば、なぜ今死んではいけないのかという問いは、この上なく重要な問いだ。世間体なんか気にしたところで、世間さえもいつかは無くなるものなのだ。だから、精いっぱい”ぐれて”みよう。

ざっと読んだ感じはそんな感じ。

本書はざっくばらんなオムニバス形式。哲学書というよりかはエッセイ。第一部には、「どうせ死ぬのになんで死なないといけないのか」という問いへの返答が書いてある。

第二部の「根本悪について」というカント解説が一番面白い。それ以降は、中島先生の個人的な自慢が書いてあるので面白くはない。

中島先生は本書で、世間一般の人々が無意識に悪を行っていることを指摘している。カントからすると、絶対的真理に対する尊敬を行わないといけない。にも拘らず、我々は日常功利的な選択をしている。この点をカントは根本悪という。悪とつくとBadな意味と捉えられそうだが、要するにカントは「人は賢い」と述べている。

たとえばウソをつく場合を想定する。DVをする夫の元から女性が逃げる。あなたの家に飛び込んでかくまってほしいという。しばらくすると男性が訪ねてきて「私の妻を知らないか」と言う。

このとき、一般的にはウソをついて「あっちに行きましたよ」と夫を誤誘導することもあろう。しかしカントからすると、これがよくない。人は決してウソをついてはならない、と言うのだ。ウソと真実では真実のほうが絶対的に良いのだ。だから真実を求め続けないといけないのだ。しかし人々は、真実に向かう義務から時にすぐ逃走してしまい、自他の利益を優先してしまう。カントはこれを根本悪という。

どうして生きなければならないかという問題も、まさに真実な問題だ。だから、その真実に目を背けてかりそめの世間に尽くして生きるのは良くない。哲学的に徹底的に問う、という生き方から目を背けてはならない。これが”ぐれる”ということであり、本書ではそれをススメている。

感想

中島先生はカント入門本を書いている。カント解説の塾もしている。だからカントの根本悪についての部分は面白かった。それ以外は全然よくなかった。

中島先生は「世間」を支えている普通一般の人間を嫌悪している。昔から、マジョリティとの感覚の違い(たとえば肉がきらい)に苦しんできたという。好きでもない料理をありがたく食わされる給食の時間が苦痛だったという。

2001年のアメリカ同時多発テロが起きたときも、今後の経済のゆくえや平和だ戦争だとかはさておき、何よりもまず、「あのテロは起きるほかなかったのか」という決定論的な疑問に頭が行ったという。

なんか、うるさいな。

自分は他の人とちがうんですアピールをずっとしているイタイ人だった。この本が書かれた54歳頃にして、「私は世間語を辞めた」と言う。料理が出されて美味しくないときにも美味しいと言ったりすることを辞めたという。

思うに、そんなことは54歳にして辞めることではない。

そんなことは私も20代のころからしている。どんな料理の席でも美味しくなかったら「美味しい」とか「ご馳走様でした」とは言わない。遅い。私はもうそろそろそれを辞めようかとさえ思う頃です。

昔の日本を持ち上げて、現代日本の劣化をなげく御仁は歴史の知識がない上に、貴族や上級武士に自分を見立てているとこき下ろす。ここは痛快ですが、本書を読み進めていくと見事にブーメランが中島先生に刺さっている。

大部分の祖先が牛馬のように労働に明けてくれて死んでいったことを指摘する点は、大変すばらしいのにもかかわらず、現代の労働に明けてくれて死んでいく人々について中島先生は、世間のために身を捧げる人間として批判している。

さらに第三部では、中島先生は「現代日本の家族主義」にはうんざりだ。おれみたいなかっけぇマイノリティ哲学者は孤独がちゅきなんだぁ、なんだと書いているが、これこそまさに中島先生の批判する上級武士しぐさでしかない。

古今東西、家族が何より大事なのです。大規模アンケート調査から、どのような経済体制の国でも、一番に大事なものは「家族」だと答える人が多い。「宗教」だとか「友人」だとかは国に因って(とくに経済の成熟度に因って)、第2位に大事なものだったり、第3位に大事なものだったり変動がある。

「俺はみんなと違うからこんな考えをしているうんぬん」とかじゃなく、たとえばみんなが大事に思っていることがあるという事実やデータから出発したりはできないおつむなのかなぁ。

思うに、(私もですが)哲学好きな人というのはくだらない。哲学することを崇高なことと考えているフシがある。変なことを考える自分はカッコいいと思うフシがある。何かを徹底的に考え突き詰めてみることを良しとしている。んなこたぁない。

マトリックスでネオが「真実」を知る薬を手にするというシーンがある。これはまさに本書が書かれた頃2000年代を代表する映画だ。機械が人間たちを培養し、ウソの世界を見せている。主人公たちは機械の作ったディストピアに立ち向かう。そんな映画。

しかしながら、これは真実を良いものとする考え方がないと、成り立たない映画ではないか。カント的なシナリオだ。苦しい真実の人生と安楽なウソの人生だったら、どうしても前者をとらなきゃいけない理由はどうやって導けるんだろう。カントは「そう命令されている」とか言うんだろうか。だったらなんなんだろう。安楽なウソの人生でも良さそうなものだけど。

先生は読むべき本のリストの中に太宰治の『人間失格』をあげ、短く評を書いている。「この男は、正統的ぐれ方の見本。残念なことにめっきりこのところ見れなくなった」。とか書いている。

SNSを見れば先生がよろこびそうな人は沢山みられるでしょう。人間失格なやつはごまんといる。SNSはそういう人をあぶり出しただけで、SNSのなかった2000年代にもきっと沢山いたんだろう。先生が世間を知らないだけ。めっきりこんなやつぁいないなぁ、残念だなぁとか書いても、自分が世間知らずなだけ。

上級隠者しぐさなのかな。世間を捨てつつ、斜めに切ってみせる俺かっこいいなのかな。

先生のところには自殺をしたい若者がよく相談に来るらしい。相談者を間違えている人も中にいると思う。それは過失でしょうか、教育の敗北でしょうか。思うに、人は観念操作が行き過ぎるとどうもおかしくなる。哲学は悩める精神を癒すだろうか。観念操作が悩める精神を癒すだろうか。現実的問題に目を向けたほうが良い。

たとえば、お金がないから死にたいという人の中には、借金苦をしている人もいれば、欲しいものが買えないから辛いという人もいる。その悩みの背後の軽重は一様でない。しかし、たとえば月にどれほど稼いで、どれほどくらいの支出割合にしたらいいのかという現実具体な対策が、お金で心を病む多くの人にとっては一番効く薬かもしれない。

あんまり働かないようにして、しかし趣味を充実させる費用のためには月にこれだけ稼いだらいいとか、貯蓄運用の仕方とか、役場ではこういう扶助があるよとか

そんなことを目をパチクリしつつ、上半身をぶんぶん縦にふりながら、マネーリテラシーの講釈を垂れるやつのほうが、カントはこういうことを言っているとかハイデガーはこう言うことを言っているなどの講釈を垂れる哲学者先生よりもまだ、この資本主義社会で自殺を志願する者の自殺防止に有用性があるだろう。

有用性の程度の問題だ。哲学にその程度が全くないとは言っていません。しかし、哲学は現実の問題に対し、時に全く使いものにならないということはよくある。悩める精神を癒すために飛び込んだ哲学という泉は、ただ風邪を悪化させるだけのこともある。

本書では哲学的に”ぐれる”ことを勧めていたので、そんな先生のよしあしでも書いておこうかなと思いました。あしざまに。


IMAGE BY 愚木混株 Cdd20 FROM Pixabay

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