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部活動指導に関する非常に屈折した葛藤

教員の働き方改革が進んでいます。そのなかでも最も議論が盛んなのは、残業代の話と部活動指導の話でしょう。

先に自分のことを。私は高専の教員として、現在卓球部の指導をしています。私自身中学校から大学までそれなりに熱心に卓球をやってきており、部活に行ったときも迷惑にならないときは少しだけ卓球をさせてもらっています。さまざまな形で部活動指導をされている全国の先生の中でも、かなり恵まれた条件だと言わねばなりません。はっきり言えば、私は部活動指導がほとんど苦になっていません。卓球が好きなので。

また、自分自身中高の顧問の先生にはなにかとお世話になりました。それを思えば、自分がいま顧問をしていることも大きな意味での恩返しと言えます。

しかし、これは主観的な話。全体の制度として見れば、このシステムは明らかに破綻しています。

まずもって、業務としての位置づけが明確ではない。建前としては、部活動指導は教員の正規の仕事ではなく、あくまでサブ的な位置づけとなっています。したがって、土日の部活動指導には通常の給金は出ません。でも時給1000円くらいの、多少のお手当は出ます。このあいまいさ! 基本的に教員の協力をお願いするという建前がベースにありながら、実態としては全員顧問制である場合が多く、実質的には業務の一部となっています。

SNSなどではたまに部活の顧問を断ったぜ、みたいな話を見ますが、そういうことをする人はごくごく少数でしょう。教員はひとつの職員室で働いているわけで、ひとりだけ部活を持っていないとなれば、部活動以外の仕事でほかの先生の協力を得にくくなることは目に見えています。ふつう断れません。

また、活動が盛んな部活では土日も練習があることも多いわけですが、平日に授業をして土日に部活をしていては休める日がありません。人によっては、60日連勤しているみたいな話も聞いたことがあります。これは極端な例であるにせよ、現在の制度上ではそれが常に発生しうる状態となっており
、このことは大きな問題です。

つまるところ、家庭や社会が安価な労働力として教員を使うことで、通常なら月1~2万円くらいはかかるであろうスポーツクラブや文化的な活動を、ほぼ無料で引き受けさせていることになります。この部活動の状況は、会社でいえば社員が日給4000円くらいで地域のごみ拾いや草むしりに休日駆り出されているようなものです。全員が、毎週。

問題点はまだあります。たとえば大会があるときには通常の付き添いより負担が重くなりますし、泊まりがあるなら交通手段や宿の手配をするのは顧問です。出先でなにかあれば、もちろん顧問の責任ですし、泊まり先で生徒が騒いだら謝りに行くのも顧問です。大会の審判をボランティアでさせられ、しかも審判をするための講習をうける費用は自腹という話も全く珍しくありません。部活動を見るだけでなく、大会への登録や学校内部でのこまごまとした書類仕事(この日に体育館を使いたい、部員が増えた/減った、これこれのために部費が要る……etc)にも時間をとられます。

挙げていけばきりがありませんが、改めて言えばこうした業務はすべて正規の業務ではないという位置づけなのです。なぜこのような制度が存続できているのか。冷静に考えると不思議です。不思議ですが存続しています。

しかし考えれば考えるほど、この部活動という制度が日本社会全体に深く根をおろしており、広大な範囲に恩恵をもたらしていることもたしかです。

生徒の側から見てみると、部活は(いわゆるブラックなやつは除いて)場所代なしでスポーツなどの活動を楽しめる貴重な場所です。クラスになじめなくても部活では楽しくやれるかもしれないし、勉強ができなくても部活での活躍によって自分の存在価値をたしかめることもできます。先輩や後輩との関係も、基本的に同じ年齢が横に並ぶ「学年」という単位では得られないものです。もちろん、部活は心身の成長にもつながります。

親の側から見ると、部活はありがたい保育施設でしょう。16:00ぐらいに帰ってきて家でだらだらされるよりは、部活で友達とそれなりに楽しく遊んで、夕飯の時間くらいで帰ってきてくれる方がいいはずです。

経済や文化といった面でも、部活は重要な貢献を果たしています。多くのプロスポーツ選手が、いわゆる強豪校で鍛えられ、部活動という形で実力を磨いてきたのです。もちろんそうした強豪校では外部のコーチなどを招き入れているところも多いでしょうが、プロを排出しないようないわゆるふつうの学校が、基盤としてトップ層の強さを押し上げてくれています(競争が激しいほど、勝ち上がるために必死になりますから)。そしてプロにならなかった選手たちも、今度は観客という形でプロスポーツの味方になってくれるのです。また、部活のためということでなされるスポーツ用品の購入がなくなったら、どれほどの店舗が閉店に追い込まれるか想像もできません。

もちろんこれは文化部でも同じです。何人の漫画家が、文学者が、ミュージシャンが、美術部や文芸部や軽音部から排出されたことでしょう。部活動がなくなったとき、多くの生徒が孤独に小説を書くしかなくなってしまうでしょう。そのことが、芸術の質に作用しないとは思えません。

さらに、社会全体も部活動を前提として回っています。たとえば企業のES。学生時代力を入れたこと=ガクチカが聞かれることも多々ありますが、多くの生徒がガクチカとして部活(大学ならサークルも)の活動を挙げます。企業がどの程度それを真面目に読んでいるか知りませんけれども、少なくとも就活で部活が果たす役割が大きいことはたしかです(運動部が有利、なんて話もありますね)。

部活は治安維持にも役立っています。体力の有り余った少年少女が、1日中椅子の上で勉強させられたあとにそのまま街に繰り出したら、いまよりもずっとトラブルがたくさん起こるでしょう。部活はガス抜きでありエネルギー吸収装置でもあります。ちなみに調べてみると、こんな論文もあるようです。https://www.bgu.ac.jp/assets/old/center/library/image/hum2010_133-140.pdf

要するに教員が大変であるということだけに目をつぶれば、部活動がもたらす恩恵は莫大なわけであって、それを教員の半ボランティアで得られるとなれば、それはやらない手はない。今の働き方改革の方向も、部活動は残したうえでそれをいかに教員の手から離すかというところにあるようです。

具体的には、いくつかの学校の部活を併合する(少ない教員で監督できる)、部活動を地域移行する、外部コーチに任せる、などが対策として挙げられています。部活の併合は学校全体の規模が小さめの学校同士でやっている印象があり、多いのは地域移行や外部コーチの招致、つまり部活のアウトソーシングという方法ではないでしょうか。たとえば神戸市では、「コベカツ」なる部活動地域移行プログラム的なものが中学校でスタートします。

部活動を存続しながら教員――要するに負担が偏っている部分の激務を緩和するという方策は、まっとうであり肯定できるものです。ただし、ちょっと考えただけでもいくつもの問題点が浮かび上がってはきます。

・「地域移行」は教育委員会や学校側が熱心にやろうとしているだけであり、どの程度地域のスポーツ団体などが受け入れてくれるか怪しい。
・ハラスメントが発生する可能性が高い。特に、生徒との接触を目的に部活に近づいてくる人間が複数でることが予想できる。
・地域移行という形で部活を委託する中で、教員は面接や外部団体との折衝という業務を担うことになる。つまり、業務が対して減らない可能性もある。また、コベカツのように学校施設を利用する場合、事故や事件に関して学校や教員の責任が問われる可能性が高い。少なくとも学校側は、無視はできない。

もちろん文句はいくらでも付けられるので、繰り返しになりますが地域移行なりの方向性には賛成です。リスクはありますが、いままでリスクが比較的抑えられていたことが特殊なのです。

しかし、――ここからが実は本題なのですが、これらさまざまなことを勘案しても、教員自身が部活動指導を行うことのメリットは無視できないものがあるように思うのです。それが、わたしの「部活動指導に関する非常に屈折した葛藤」なのです。

部活がなくなれば、教員は基本的に教室での生徒の姿しかわからなくなります。そこでの評価軸は、勤勉さや学業成績といったところになるでしょう。学校はそういう場所だというのは十二分に認めつつ、けれども部活動を指導していて見えてくる生徒の違った一面というものが確実にあるわけです。

たとえば、授業にはあまり熱心でないが部活動では中心的な役割を果たしている生徒。そうした生徒がいた場合、日頃の教育の方針もやはり変わってくる。こいつ全然授業聞いてねえな、でも部活ではいい顔してんだよな。それを教員が知っているか知っていないかで、相手の見え方は大きく違ってきますし、見え方が変われば指導の仕方も変わってきます。

僕自身の非常に主観的な感覚では、部活がもたらす教育的な効果は絶大です。必死に練習して、大会で勝つことができた。必死に頑張ったのに勝てなかった。さぼっていたツケが結果としてあらわれた。先輩として後輩を指導した。後輩として先輩のために働いた。チームのために勝ちを目指した。チームのためにレギュラーの勝ちを祈った。私が人生で最も多くを学んだ場所は部活であり、その経験は今でも自分の支えとなっています。これは私の指導力の問題でもあるでしょうが、正直自分の授業が部活動がもたらすよりも教育的な効果を生徒に与えているかといえば甚だ怪しい。このことは、プレーヤーとしても指導者としても感じるところです。

部活動の地域移行や外部コーチの呼び込みがスムーズにいくとは考えられない以上、それらは部活動の縮小という結果をもたらすでしょう。つまり、学校、ひいては日本社会は、部活動がもたらすこうした教育効果の、少なくとも何割かを手放すことになります。教員の犠牲と献身で成り立っているこのシステムは、しかし他に類をみないほど優れた教育的効果をもたらしているのではないでしょうか。

高専に務める前は、私も部活動の存続は無理がある、廃止もやむを得ないと考えていました。しかし実際にさまざまな部活で活躍している生徒を見ると、その考えもゆらいできます。学校は部活を手放して良いのか?学校ができる教育として、部活よりも優れたものはないのではないか?だが、それは教員を搾取して存続しているシステムである。明らかに間違っている。けれども、部活がもたらすものはあまりにも大きい。いやしかし……。

私のこの葛藤は、あまり共感されないものかもしれません。実際、高校教員である妻はもっとクールに部活動で教員が疲弊するのはだめでしょう、と考えています。そしてそれは全く正しい。このシステムはあきらかにサステナブルでない。

と、いうようなところで、私は非常に迷ってしまいます。歪だが優れたシステムというものが存在する場合、そしてその歪さを解消するとシステムの優れた点が損なわれてしまう場合、人はどのように対処すればいいのでしょうか?これは教員や学校だけの問題ではありません。社会全体で、もっと部活動のあり方について議論し、悩み、熟考していくことが求められているのではないかと思います。

部活動の形は、どのようであるべきですか?

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武久真士
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