noteを100記事書いて
この記事で、noteの記事が100記事目になります。せっかくの記念なので、noteという媒体に対する私の思いを書いてみます。
なぜnoteを書くのか。大前提として、私は文章を書くことが好きです。このように公開されている記事の他にも、プライベートな日記や展覧会評、読書ノートなどを書いています。読むことと書くことは、私の生理に近いものです。
また、noteのUIも非常に私好みです。私は文を書くときにかなりパラグラフのまとまりを重視するのですが、noteはパラグラフを意識させるようなデザインとなっています。おかげで、次々とパラグラフをつなげながら文章を書いていくことができ、実に快適です。
そうした便利さもあって、いままで99の記事を書き続けてこれました。noteをはじめたのはコロナウイルスの年なので、始めてから約4年になります。48ヶ月で100本なので、ひと月に2本のペースで記事を書いてきたことになります。すべての記事が無料で読めます。今後書く記事も、私が仕事をクビにならなければ無料で公開するつもりです。職を失ったら助けてね。
しかしこのようにnoteを更新し続けてきた理由には、単なる趣味だけとは言い切れない部分もあるのです。
私は日本文学の研究者です。より詳しく言えば、日本の近代以降の詩を専門としています。博士号を持っています。研究者なので、論文を書きます。
論文を書きますが、シビアな現実として、研究者以外の人が論文を読むことはほとんどないと思っています。まわりの人に聞いてみてください。なにかを調べるときに論文を読もうとする人がいるでしょうか。wikipediaで十分でしょう。
もちろん、そのwikipediaの情報こそ研究者の地道な努力によって判明してきた様々な事実をもとにして書かれています。論文を読む人がいくら少なかろうと、論文が書き続けられることの意義が毀損されるわけではありません。論文が書かれなければ、論文以外の情報ソースが使いものにならなくなっていくだけです。
けれども、いまの高度化した論文の水準が一般に必要とされる知識の基準に対してかなり過剰であることもたしかです。私は『日本近代文学』に掲載される論文を楽しく読みますが、ここに載っている論文の内容を人々に還元するとすれば、かなりの前提知識を身に着けてもらう必要があるでしょう。日本文学にかぎらず、高度化された現代の研究は多くの人にとって自分の人生とは関係のないものとなりつつあります。極論すれば、論文が書かれるのは次の論文を書く人のためであり、それは学会の内側で乱反射を繰り返すだけのものとなっている。そういう事情があります。
これが医学や薬学、工学といった社会的な課題と直に向き合う学問なら、まだ研究成果の社会実装がやりやすいでしょう。一方文学など人文科学の一部の学問は、社会実装がかなりやりにくい分野です。これはもうどうしようもない事実ではないでしょうか。
「文学研究は役に立つか」みたいな、単純なことを言いたいのではありません。文学研究は役に立ちます。たとえば古典文学は研究者が翻刻しなければそもそも読むことさえできませんし、研究者の豊富な知識があってこそ詳細な注をつけることができ、当時の社会についての理解を深めることもできます。また近代文学でも、研究者が地道に資料を収集することによってさまざまな作家の作品を読むことができるわけです。最近で言えば、『左川ちか全集』がいい例でしょう。
ただし、研究の「役に立ち方」がかなり間接的なものであることは否定しようがないと思っています。私が書いている論文はめぐりめぐってなんらかの社会実装に役立っているでしょうが、それはけっこうめぐりめぐった末のことです。
社会貢献をそんなに意識しなくても……という話もあるでしょうが、では私たちはなんのために研究をするのでしょう。学会のためでないことは確かです。私の「楽しい」のため……? 私についてはその通りであり、おそらく文学系の多くの研究者もそうじゃないかと推測するのですが、自分が楽しいから研究するんだ、それでいいのだという開き直りは、私の「楽しい」を損ねます。それでは私が楽しくない。
前置きが長くなりました。私がnoteを書き続けている理由の一側面は、要するに研究を通した社会貢献のためです。たとえば、私は研究で得た知見を通して次のような記事を書いています。
私は、研究者がこうした記事を出すことの意義は大きいと考えます。ふだん論文を書くためにさまざまな訓練を行い、知識を身に着けている研究者だからこそ記事のクオリティを担保できるからです。論文を書く人間が同時に入門的な記事も書く意味は十分にあります。
私のnoteは研究活動のサブとして見られていることが多いように感じますが、違います。私がわざわざ時間と労力をかけて定期的に記事を更新しているのは、趣味でもありますが研究者としての活動の一環でもあります。私はほかにも読書会をしたり研究会を開いたり批評誌を作ったりしていますが、それらすべての活動は研究の社会実装として行っており、私の中で論文を書くことと等価の価値を持っています。それぞれの活動が、それぞれ違った層の人々に届いていると考えています。
非常に率直に言えば、私は人文系の研究者に不満があります。理系の研究者(人文系/理系という言い方もあまりに大雑把ですけれど)に比べて、我々の活動はあまりに閉じているように感じるからです。論文執筆、文学部での授業、外部での講演。このあたりが文系研究者の主な社会貢献ですが、どれもその分野にかなりの興味がある人々を相手にしています。多面的に、自分の研究を公に開くような実践が必要です。
繰り返しますが、大切なのは多方面にリーチする戦略です。研究をすること、論文を書くこと、それも大事です。そして、それをよりライトな形で社会に発信することも同じくらい大事です。二者択一で考えると妙なことになります。両方やればよろしい。
私程度でも、地道に記事を更新していればそれなりに読者はつくと信じています。続けていけば、それは何かを動かすのではないでしょうか。
最後に、私の好きな文章を引用して終わりたいと思います。夏目漱石が、弟子である芥川龍之介と久米正雄に送った手紙です。これが私の人生訓です。馬にはなれぬ己なので。