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将来像がわからなさすぎる

 最近、『反出生主義入門』という本を読んだ。正確にはまだ読みかけ。ものすごくざっくり言うと、これはデヴィッド・ベネターという人が主張したもので、ベネターは生きとし生けるもの、感覚を持つ生き物が大好きすぎるという理由から「存在しない方がより良い」という考えに至ったそうだ。日本語ではわかりやすく「生まれてこない方がよかった」というふうに翻訳されているけど、原文により忠実に言うなら「存在しない方がより良い」になるらしい。

 この記事では、この本を基にして自分の将来設計について、2025年2月の私が考えていることを書き残しておこうと思う。困ったときに見返してね、数年後の私。
 
 その前に、何でベネターが「存在しない方がより良い」って結論を出したのかというと、この世に存在するということは苦痛を味わいながら生きることを強制されるからだそうだ。そもそもこの世に存在しなければ、快楽もゼロになるけど苦痛も同じくゼロになるから、苦痛を味わいながら死んでいくという流れを辿らなくてもよくなる。
 
 なるべく苦痛を味わう大好きな生きとし生けるものが少なくなるようにはどうしたらいいかを真剣に考え抜いた結果、「存在しない方がいい」ということになった。すごい発想。ほかにも、この主張を知るうえでどうして中絶が問題なのか、人間と人間と認められないものの境目など、生命倫理についてわかりやすく書かれていた。

 それで、この考えに従うと「子どもを産むことは悪である」っていうことになる。この世に生命を誕生させることは、その生命に苦痛を与えることになってしまうから。だだしこれは、ベネターも子どもが欲しい人を全否定したいから言っているわけではない。私も否定はしない。他人の超重大ライフイベントに干渉できるわけがないから。
 
 私は女性なので、健康上の問題が無ければ多分子どもを産むことは出来る。その前にまず相手がいないという問題があるけど。ニュースで結婚や出産した芸能人の年齢をみて、「えーあと5年経ったらこの人と同じ歳じゃん」とか、友達のお母さまがその友達を出産したときの年齢を聞いて「そんなに若かったの!?ほぼ私と同じじゃん」とか思う機会が増えた。ああ私もあと少しで人生設計を真剣に考えなきゃいけない歳になってしまったのかあとぼんやり想像することも多くなった。

 私は、社会に全く出ていないひよっこもひよっこだけど、あんまり子供欲しいと思ったことがない。可能性をゼロにするのはちょっともったいないような気もするけど。高校生になる前は結婚からの家庭を築くということが当たり前だと思ってたような記憶があるが、高校以上になってからほんとにそれでいいのかとも思っている。

 欲しくない理由として一番大きいのは、おそらく自分の身体への負担が大きすぎるということと、そもそも私が人と接することが苦手だということがある。大人だってよくわかんないのに、子どもだったらもっと何考えてるかとかわからないだろうなあと思っている。これも子どもが欲しい人を否定したくて言うわけでは決してないけど、自分の身体の中で自分とは全く違う人間が徐々に育つことって怖くないの?とも思ってしまう。一人暮らしもまだしたことがないので、それも経験したい。今からここ数年は、自分のためにやりたいことをたくさん消費したい。とにかく今は自分の命を懸けてまで子どもが欲しいとは私はどうしても思えない。

 この理由に加えて、「反出生主義入門」を読んで、欲しくない気持ちがちょっと強くなったかなあと思う。本にも書いてあったように、もしかすると、将来的には今苦痛であるとされていることも苦痛ではなくなるかもしれない。でももし、私のもとに生まれてしまったら、きっと接し方がわからなくて十分に愛することができないと思う。自分が子どもの苦痛の種になりかねない。子どもに興味を持って接することが出来るかどうかわからない。これは子どもに限った話じゃないね。

 さあ今の考え方が今後どう変化するでしょうか。

 

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