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サヨナラ・ニッポン~医療崩壊をもたらしたものは?(1200文字)

76年目の8月15日をどういうかたちで迎えるだろうかと身構えていたが、その日までこの国は国家の体を取り繕うことはできなくなった。

開会式から医療崩壊宣言に至るまで

開会式の裏でも五輪反対派の市民と警官の攻防が繰り広げられていた。こういった映像も国内メディアは諸般の事情で流さないお約束なのだろう。

ひとたび始まってしまえば、日本国内地上波テレビはどのチャンネルも五輪一色に染まった。「始まったのだから応援しよう」「頑張っている選手に失礼だ」一種独特な「空気」なるものが作りだされた。それはやがて「オリンピックやっているんだから、大丈夫」「オリンピックやっているなら、一目だけでも観てみよう」という流れへ。

もはや感染は止められない。CNN特派員ウィル・リプリー氏はこの有り様を[skyrocket:(動詞) 急上昇する]と表現。相手はデルタ変異株なのだから。このシンプルかつストレートな伝え方が日本の報道にはない。

そして、あっけなく菅首相による医療崩壊宣言を迎えた。重症者もしくは重症化リスクのある者以外(翌日、重症化リスクのある人も原則自宅療養に方針転換?)医療の御加護にあずかることはまかりならぬという御達し。酸素吸入治療は在宅でもできると厚労大臣が言うわりには、酸素濃縮器を海外支援物資として寄贈する外務大臣。先進国ぶろうとして昨年も自国の防護服が足らなくなって雨合羽騒動に発展した前科ありだが、案の定足らない。元官房大臣は五輪選手の活躍が政府批判をかわす盾になってくれていると評価。

五輪反対を唱える米国ジュールズ・ボイコフ教授「なんてことだ」と五輪開催国の末路を按じる。

メデイアによるコロナ非可視化

日本のテレビは五輪一色に染まる前から、コロナの悲惨さを隠そうとしてきた節がある。新規感染者数などを伝えるのは専らのっぺらぼうの「数」。お悔やみの言葉もない。日本のメディアが当事者を隠す理由として、差別・偏見、コロナ解雇といった事態の助長を回避するためとも考えられるが、海外ではアジア系差別とも向き合ったので言い訳にならない。

目に見えない福島の放射能被害をひたすら「風評」と言いくるめることで悪質な成功体験を得た政府は、コロナ対策にもその手法を転用…政権にマイナスなイメージがつかぬように「飲食店」「若者」をスケープゴートに乗り切れると思ったのか。無批判に放送したメディアも棄民政策の共犯だ。

パンデミック初期から海外メディアではオープンにやっていること。

大切な人を失った悲しみにくれる遺族の声、ビニール袋に包まれた遺体収容作業、病床で生死をさまよう患者の姿をこの1年半でどれだけ国内メディアは取り上げただろう。共感するもの、心寄せる対象がイメージできないまま「今だけ・カネだけ・自分だけ」勢いそのままオリンピックに突入。

どこかで引き返せたかもしれないはずなのに、先の大戦の過ちをそのまま繰り返す哀れな国。

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