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教会のクリスマスもオンラインでつながる2020年冬

年の始めは神社に初詣、クリスマスにはケーキを食べ、お彼岸は御寺にお参り...

父方 仏教/浄土真宗
母方 神道
我が母校 キリスト教/プロテスタント

というわけで冠婚葬祭どこにいっても困らない私です。なんでも、極めれば1つところに行き着くという話もございますが、どれ1つ極めていない典型的な日本人とでも申しましょうか。

いいんです、大事なのは気持ちです。

さて、コロナ禍にあってクリスマスらしいことを避けて、避けて過ごしておりましたが、逆にコロナ禍のもたらしてくれたご縁で、オンラインで北九州の東八幡キリスト教会のクリスマス礼拝に参加しました。

奥田知志 牧師のお話にはいつもハッとさせられる気付きを頂いてます。「コロナが怖い怖いといっても、今年1年コロナで亡くなった人が約3000人。今年の10月だけでも自殺で亡くなった人は2000人以上。」どれだけ見過ごされている命があるのだろうかと、ひたすら悲しくなりました。

※コロナ禍の奥田先生のお話シリーズは書籍化されるとのお知らせも。是非本を手元に置いて読み直したいです。

そこで聖書を開いてイエス・キリストの誕生のシーンについて考える時間。

[ルカによる福音書2章6節~]
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

「聖書に書いてある'泊まる場所'の'場所'というのは物理的なことを指しているのではなく、社会のこと。誰もこっちへおいでと言い出す余裕のない社会。」

自分は心にどれだけの'スペース'を持ち合わせているだろうかと自問自答してみます。このコロナ禍で突然見ず知らずの旅人/homelessを自宅へ招けますか。実際、声をかけるのすら勇気がとてもいることです。

隣人の傷んでいるときに寄り添える人でありたいと強く思いました。ただ、いま誰かに寄り添って欲しいと願うから余計にそう思うのかもしれません。でも、私が見えてない、見ようとしていないだけで、すでに寄り添ってくださっている御方はいるのですよね。それが信じることなのですよね。神様というとてつもなく大きな存在は私の想像だに及ばないけれども、想像できる範囲で感謝を。

そして、讃美歌「もろびとこぞりて」。卒業して何年も経ちますが歌詞覚えてますね。ホームに帰ったような気持ちになりました。ボッチで人恋しいあまり、一緒に歌わせて頂きながら泣いてしまいました。老いも若きも、いろんな歌声が響く教会っていいですね。

残念なことに今年は「ハレルヤ」は自粛とのこと。

私の高校は1年生がアルト、2年生がメゾソプラノ、3年生がソプラノというパート分けで校内全体で三部合唱をするのが伝統でした。ソプラノのパートが1番の憧れでした。いざ高3になってみると、受験勉強で寝不足の状態に早朝からあの高音を要求されるわけで、軽く貧血起こしそうになっていました。そんな妙な思い出が「ハレルヤ」にはあります。

来年のクリスマスにはあの教会の木の温もりを肌で感じながら一緒に歌わせてもらえたならば何よりの幸せです。それを目標にまた1年過ごしてみようかな。行ってみたい場所が1つ見つかりました。自分が居たいと思う場所が、自分の居場所。

※リンクYouTube 0:48あたりから礼拝です

メリークリスマス

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