反原発を訴えるおばさんたちに聞いてみた話 ~感情で語ることの危うさ~

先ずは前提として、原子力発電(以下,原発)に対する自身のスタンスについて。電気について(底辺ながら)〇年間勉強してきた身としては、比較的肯定だと思っている。後でも述べるが、従来の発電方法に代替できるほど高効率なものがなく、電気消費が激しくなるであろう今後においても一定数電力供給のために必要ではないかと考える。安全性についても規制強化の下で保障されるべきである。


春の訪れに期待する3月のある日、帰りに自転車で駅前の公園の横を通ったら、横断幕やら掲げたおばさんたちがいたので横目で見たら反原発云々と書いてあった。やれ、この季節かと思って通り過ぎたのだが、今まで気になっていた「反原発派の主張」を聞いてみたくなり、自転車を引き返した。

「あなたも一緒にいかがです?」と横断幕をまじまじ見つめられたらそう言われた。5,60のおばさんが数人か。ママチャリにもなんやら張り付けてあんだね、「なんで反対なんですか?」と聞いてみた。そしたら、こう返ってきた。

「福島をあんな目にしてとても危険だし今も汚染水の問題がね。。。」

なるほど、ああ、汚染水ではなく処理水なんだけどまぁいいとしよう。
「福島のひとたちが今もかわいそうだし」とも言ってたな。
で、次に原発の代替案を聞いてみた。では、原発を無くしたら電力供給の基はなににすべきか、なにと考えられるか。実際、原発が止まった今の今まで供給に問題がないのは火力発電や我々の節電省エネに委ねられている。しかし、この先もというわけにはいかないだろう。で、おばさんの答えだ。

「再生可能エネルギーがあるじゃない

確かに正解ではある。しかしそれが原発の代替になるには余りにも足りない。風力にしろ太陽光にしろ天候という条件に左右され、発電量が及ばない。つまり、代替案なしに原発を無くせと言っているわけである。これはあまりにも無責任がたたらないか。で、最後に放射線について聞いてみた。

ぼく「やっぱり放射線は怖いですか?」
おばちゃん「怖いよねー」
ぼく「この空気中にもあるってご存じですか」
おばちゃん「聞いたことがあるけど分からないねー」

つまり、知らないということである。幾らかやり取りをしてみたが、詰まるところ、おばちゃんたちは原発やら放射線のことも知らず、反対を訴えていたのだ。そして、その反対の根底にあるのは、
「現地の住民がかわいそう」「未来の子供のために」
といったところか。それは各々の感情だ。知識もなく、ただ己から湧き上がる人のことを思う感情、そして怒りの矛先への抵抗。


これはいかがなものか。科学を感情で語っていることに危険さを感じた。決しておばさんたちを否定するつもりはない。ただ、感情で述べるフィールドではないのだ。先も言ったように、科学は理(ことわり)を以て是非が問われるものである。危険であることは確かであるので、そこは許容できるだろうとしても、主張するにはあまりにも知識が無さ過ぎる。

以前、ある市議会の議員さんの講演が学校であり、聴講に行った。経歴としては理系であるが、人に選ばれ弁を立つ仕事に今はお勤めなさっている。彼は防災の観点から3.11以前より原発についての主張を行っていた。つまり、筋道や根拠などしっかりとした上で反対を訴えているのである。論理的な反対意見に対しては何も言うことはない。それでいいと考えている。

しかし、現実はどうだろう。あらゆる事象をみな感情で語っていないだろうか。1年来続くVirus騒動のあれこれもネットの声,つまり本心を覗いてみれば、怒りと恐怖と...負の感情が溢れかえっている。感情に任せ、お国のお偉いさんを奈落に落とさんと頓珍漢に述べたりもみえる。そして、科学=事実の示す方向とは異なる向きへ国が動かされている。旅行支援の企画が、"ウイルス拡散の根源"と世間の声で潰されたが、実際はウイルス拡散の原因とは考えられないと後になって分かったように。

近年は夢物語をおっぴろげる政治家(もどき)も増えた。「ぼくのかんがえたさいきょうのせいじ」と言わんばかり。普通に考えてもできっこないし、そんなことしたらいよいよ日本も終わるレベルの公約とも似つかない理想。それらは感情だけが溢れ続ける者たちに付け込むように取り入る。知識もないから、人はその夢物語を見せてくれる道化師に付いてゆく。やがて道化師が天下でも取ったら自己防衛の他ない。


話のスケールを広げるのはあまり好かないが、結局のところ、知識なしで感情任せに物事を語ることがいかに危険か自覚しなきゃいけない。自分自身、主観的であるこの文章もどこかで感情に委ねて書いていないか吟味しなければならない。しかし、人間から感情を取ることはできない。寧ろ感情は素晴らしいと考える。それが今日まで文化を創り、科学とは別に人間を豊かにしてきたからだ。


ここでは論理的に話そう、ということだ。理屈理論が隅に追いやられてはいけない。感情論が全てであるということは理に背き、合理的でなくなることも意味する。文化人は"感じたままに"としばしば言うが、豊かな感情と確かな知識と思考回路を持ちうることが大事と考える。時に泣き笑い、時に冷静で筋道を立てて考えることができるのは人間だけである。今一度、落ち着いて、知識を得て、深く考えてみるべきである。見える世界が違ってくる。最善の方法も見つかるかもしれない。



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