
歴史考察#115『六甲山にはケーブルカーでいく凄い洋館があった?!』
西本願寺について調べていたところ、「大谷探検隊」なるものがあったことを知りました。
「大谷探検隊」の画像を見て連想されるのは、唱歌「月の砂漠」です。
なぜラクダも砂漠も日常ではない日本で「砂漠」がうたわれるのかが不思議でしたが、ひょっとしたらこの「大谷探検隊」と関係があったりして?!
話を戻しまして「大谷探検隊」について調べてみますと、20世紀初頭、西本願寺第22世宗主・大谷光瑞(おおたにこうずい)が、中央アジアに派遣した「学術探検隊」とありました。
1902年から1914年(明治35年 - 大正3年)の間に、三次にわたって行われ、シルクロード研究上の貴重な業績を挙げたとありました。
第一次探検(1902 - 1904/明治35年 - 明治37年)は、ロンドン留学中の光瑞自身が赴き、本多恵隆、井上円弘、渡辺哲信、堀賢雄の4名が同行したとあります。
光瑞はカシュガル(ウイグル自治区)滞在後インドに向かい、1903年(明治36年)1月14日に、長らく謎の地の山であった霊鷲山(りょうじゅせん)を発見し、
※霊鷲山は、釈迦が「観無量寿経」や「法華経」を説いたとされる山
また、古代インドのマガダ国の首都王舎城(おうしゃじょう)を特定したそうです。
※王舎城は、釈迦が説法した地の一つ。外輪山に囲まれた盆地の中にある都市遺跡。温泉が湧き出る。
渡辺・堀は分かれてタクラマカン砂漠に入り、ホータン(和田)、
※ホータンはタクラマカン砂漠と、その南を東西に延びる崑崙山脈とに挟まれたシルクロード上のオアシス都市。
クチャ(庫車)などを調査。
※クチャは、オアシス都市。かつては亀茲国(きじこく)と呼ばれ東西貿易の中継地として繁栄。
スバシ故城では舎利容器を発見したとあります。
※スバシ故城は、ウイグル自治区にある仏教遺跡。
また、雲南省ルートの探検は、野村禮譲、茂野純一によって行なわれ、この途上で建築家・伊東忠太と遭遇。
これが光瑞と伊東の交流のきっかけとなり、のち「築地本願寺」の設計依頼へとつながるとありました。
第二次探検(1908年 - 1909年)は、橘瑞超、野村栄三郎の2名が派遣され、外モンゴルからタリム盆地に入りトルファンを調査した後、コルラで二手に分かれたとあります。
※ トルファンは、ウイグル自治区にある都市。トルファン盆地の底の高度は海面下130m といわれ,炎暑の地。古くから天山南・北路をおさえる交通の要地。
野村はカシュガル(ウイグル自治区)方面、橘はロプノール湖跡のある楼蘭方面を調査。
「李柏文書(りはくもんじょ)」はこの時に発見されたと見られるそうです。
※「李柏文書」には巨人の交流という文字も...
第三次探検(1910年 - 1914年)は、橘瑞超、吉川小一郎の2名が、トルファン・楼蘭等の再調査に加え、ジュンガリア(北疆)でも調査を行い、敦煌で若干の文書を収集。
この際収集したミイラ等は当時日本が租借中の中国・大連の旅順博物館に所蔵され、現在でもそこで公開されているそうです。
そんな「大谷探検隊」の中心的人物であった大谷光瑞は、1909年(明治42年)、神戸・六甲山の山麗に「二楽荘(にらくそう)」を建てました。
「二楽」とは「山を楽しみ、水を楽しむ」「山水を楽しみ、育英を楽しむ」の意味とされ、武庫仏教中学をはじめ、私設の気象観測所や、マスクメロンの栽培も行われるなど、
※武庫仏教中学の跡地には甲南大学理学部
博物館機能を兼ね備えた総合学術研究センターだったようで、建築家・伊東忠太が「本邦無二の珍建築」と評したとあります。
特筆すべきは、「二楽荘」には日本初と言われるケーブルカーが軌道していたこと。
また、「ニ楽荘」があった六甲山の名前の由来が、マオリ語の 「ム・コウ(六甲)MU-KOU(mu=silent;kou=knob,stump)、「静かな切り株(瘤のような山)」という説があるのも興味深い。
※切り株跡だから六甲の水が美味しいのかも⁈
しかし「二楽荘」が、焼失してしまったのはとても残念です。
(1932年/昭和7年)
いずれにしましても「六甲山」エリアもまたかなり興味深いエリアであることがわかりました。ぜひ、ケーブルカーに乗ってじっくり散策してみたいです✨