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歴史考察 #62 「ねぷた」はキリシタンにつながる⁈

一つ前の私の投稿で「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」をご紹介させていただく中、1614年(慶長19年)に、キリシタン大名の高山右近、内藤如安など148名がマニラ、マカオの国外に追放され、同時に71名のキリシタン信徒が津軽に流されたことを知りました。(慶長19年の大追放)

津軽に流されたキリシタンは京都の分が47名、大阪が24名。
71名の大部分は士族で、一部医者や僧侶がいたそうです。

彼らの居住地は、「青森縣鬼沢村」(現在は「弘前市鬼沢」)が挙げられています。

こちらには「鬼神社」というのがあり、この「鬼神社」の額に書かれている「鬼」には「ノ」がありません。

つまり「つの」がないというのです。

その理由について調べてみますと、こちらも私の一つ前の投稿でご紹介させていただきましたあの「カッパ橋」につながるお話が出てきました。

それは、村人が水不足で困っていたところ、「鬼」が一夜にして、堰(せき)を造り、水を引いて、助けてくれたというのです。

一夜で作られたその堰は、逆堰 (サカサセキ) 又は鬼神堰 (キシンセキ) と呼ばれたそうです。

その際「決して作業を覗かない」と約束されたのだとか...
(どこかで聞いたようなお話...)

おかげで村は水不足になることもなくなり、また、雨が続いても洪水などにもならなくなったそうです。

村人はこのことに深く感謝し、「鬼神様」を祀るための神社を造り、この辺りは、いつしか、「鬼沢」と呼ばれるようになったというのです。

つまり、カッパ橋同様、流刑されてきたキリシタンたちが、奉仕の精神、もしくは、強制労働などにより作業をしたものではないかと思ったのです。

しかし彼らは流刑のみならず、その後も受刑は続き、多くが処刑されてしまいました...😢

そこで二つのモノが浮かびました。
それは、「ねぷた」と「ステンドグラス」です。

「ねぷた」のあの美しい大燈籠が「ステンドグラス」と重なったのです。

それで、燈籠とキリスト教の関係を調べてみたところ、1593年(文禄2年)7月に津軽藩の津軽為信が京都滞在中に盂蘭盆会で二間四方の「大燈籠」を出したことがわかりました。

ちなみに、津軽為信は息子の信牧をキリシタンにしています。

こうしたことから、津軽の地で命を落としたキリシタンたちの鎮魂のため「ねぷた」が始まったのではないかと考えると腑に落ちるんですよね...

「ねぷた」の灯籠の絵を見てみますと、十字架はもとより、細川ガラシャなどキリスト関連の絵が複数あることがわかります。

いずれにしましても、津軽でも多くのキリシタンの命が奪われたことは確かで、そうした悲しい歴史を知った上で「ねぷた」に心を寄せることも大事なのではないかと思いました。

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