ブログ開設ーーブログのタイトルについて
"verisimilia"(ヴェリシミリア)とはラテン語で「真らしいもの」を意味するらしい。
おそらくverum(真)とsimilia(似ている)という要素の組み合わせから成っている言葉なのだろう。私はこの語に惹かれた。哲学とは真理を追求する学であるとよく言われる。とはいえ、いつもどっしりと腰を構えて真なるものを追求する余裕があるとも限らない。自分が取り組んでいる命題の真を検証する暇もなく次の課題に向かわなければならない時もあるだろう。
たとえばクライミングをしていて、いちいち次の足場の安全性を綿密に検証してから先に進もうとしたら日が暮れてしまう。状況がそれを許さないのだ。そんな時は、ひとまずは頑丈そうな岩を足がかりにして少しずつでも先に進んでいかなければならない。このように、制約のある状況下でも課題解決へと進んでいく際にとりあえず足がかりとするもの、ひとまずは真とみなしてよさそうなものを、アリストテレスはverisimilia(ギリシア語ではendoxa)と呼んでいたらしいのだ。
その意味で、アリステレスは「真らしいもの」(verisimilia)の価値を決して貶めていたわけではない。『弁論術』や『トピカ』のなかでも、彼は議論をする進める際にこの「真らしいもの」の存在が必要不可欠であることを強調している。もちろん、これは真理を追求するという哲学本来の究極目標を挫くものであってはならないだろう。だが、人間は生きている以上ーー個人生活でも、集団生活においてもーー毎日噴き上がってくる様々な問題に対処せねばならないという実際もある。その意味では、このverisimiliaとの付き合い方、操作方法を学ぶことはとても重要になってくる。。アリステレスは(おそらくは後期プラトンも?)そういったことを認識していたのではあるまいか。
このブログのタイトルをverisimilia(ヴェリシミリア)としたのは、私が近頃日々のさまざまな慌ただしさの中に埋もれて、ゆっくりと緻密な作業に向けた時間をとることが難しくなっていると感じたからだ(それでは時間がある時お前は何をやっていたという叱責もあろうが…)。二十代も前半の頃は、自分はいずれ腰を据えて、これまで考えてきたことを丁寧に文章に落とし込んでいく、そんな時間をもてるようになると楽観視していたが、どうやら最近は私自身もそして社会も時代も切羽詰まってきていて、そう悠長になってもいられない。たしかにクリエイターとはなんらかの「完成物」を提供するというのが決まりごとだが、完成にこだわるあまり、今届くべき人に届かないということがあってはいけない。それならいっそのこと、たとえ粗削りで「verum」(真理)の名に値しないものであろうと、文章を書き残し発表し続たほうがいいのではないか、最近はそう考えるようになった。もちろん、いくら「真」であることを主張できないからといって、フェイクニュースをバラまくのでは話にならない。
私が日々生きる上で感じたこと、考えたことを手がかりに、「応急処置」的に思考を積み重ねていくことで、そのさきにある展望がひらけてくるのではないかとひそかに期待してもいる。もちろん、その過程で前提の誤りが明らかになることがあるかもしれない。だから誤謬には謙虚に、でも過度に複雑にならぬよう時には大胆に、今の自分がもっている知識や経験をプラグマティック(実用的)な方向へとフル稼働させていきたい。
*ここからは少し専門的な内容(見たい人だけみてね)
ところでアリストテレスの死後300年、ローマである一人の男が、法学者である客人にアリストテレス『トピカ』について解説してくれと尋ねられたところ、「これを読めばあらゆる難題にも対処できるようになるものだ」と答えたという。そうして彼は、この法学者の友人のために、法学実務に役立つようにと『トピカ』を書き直した。その男の名前はキケロであり、かくして「真らしいもの」を扱う学=実践学としてのプルデンチア(prudentia)の精神は法学になだれこみ(Juris-prudence)、中世を経由して現代における法教義学(Dogmatik)のうちに確実に生き続けている、ということもできる。
このverisimiliaという言葉に出会ったのは、Theodor Viehwegの『Topik und Jurisprudenz』の中だった。いずれこの本についてはきちんと紹介したいのだが、古き良きドイツ碩学の知をぎゅっと集約したような重厚なテクストであった。第一章では学問的方法論に関するヴィーコの指摘が取り上げられている。それによれば、ヴィーコは古い方法としての修辞学的(トピカ的)な方法と、新しい方法としての批判的方法の二つを区分していた。前者の代表格としてキケロが、後者の代表格として『ポール・ロワイヤル論理学』のアルノーが挙げられている(ここで内容的にもデカルトが挙げられていておかしくないが、名前は出てきていない)。ヴィーコによれば修辞学的(topica)とは共通感覚(sensus communis)から出発するもので、それに対し批判的 (critica)とは、疑いをかけられても揺らぐことのない第一真理(prima verum)から出発する方法である。批判的方法の典型例として幾何学が挙げらていれる。ヴィーコは、この新しい方法たる批判的方法に手厳しい批判を加えていて、それが大変興味深い。たしかに批判的方法は厳密性と正確性に優れている。だがViewegによれば
これに対してヴィーコは古い方法と呼ばれている修辞学的方法論の内に、その中でもさらにトピックに重要な手がかりを見出していた。再び引用しよう。
それではこのトピック(Topik)とは一体何か。それが事象を多面的に観察するとは具体的にどういうことか。そしてトピックの精神(Geist)が法学といかなる関係を結んでいるのだろうか。こうした問いに正面から、だが冗長にならないやり方で取り組んでいるのがViehweg。この本からまだまだ学ぶべきことがたくさんありそうなので、いずれきちんと紹介したい。