見出し画像

小さな森のクリニック 1

そこは深い深い森の中。

都会から離れて少しずつ標高が高くなってくる。高山植物、見たことのないような形で緑と青と橙色が合わさったような苔が生えている。空気がキレイ。冷たい。そしてさらにどんどん進むと、とんでもなく大きく澄んだ湖があり、その周りの道を抜けるといよいよ針葉樹の山並みがつづく。そして深い森の中で車を止める。音はまったくない。車のドアの閉まる音がはっきり聞こえる。自分の足音も聞こえる。小動物も植物もない。ただ高い針葉樹の森の真下にいる。そんな音がない世界にぽっつりと小さな森のクリニックはやっている。白衣を来た猫たちが忙しそうに動いているのが窓越しに見える。

「ここがやけどのあとです。だいぶ小さい頃で覚えていません。ただ皮膚が引っ張られて痛いことがあるので、塗り薬を塗っていました。」
猫先生
じゃあもう痛みはないということですね。
「そうですね。」
ちょっと触ってみますがいいですか?
「どうぞ」
猫先生さわる。というかさする。はれはない。

最近どんな曲をお聴きですか?どのような曲をどのようにお聴きですか?

「家事の時に音楽を聞くことが多いですが、クラシック音楽で言いますと、リラックスの音楽という特集のものを聴いています。最近私、子供も大きくなりましたし、少し時間の余裕ができたこともあって、ピアノのレッスンを始めたんです。曲は先生の紹介でサティのジムノペディ第1番。」

あれ難しいですね。

「はい。小さい頃に少しだけピアノを習っていたのですが、この曲は左手の跳躍が多くあって大変です。それで、先生にもう少しリラックスしてと注意されるのですが、うまくリラックスできなくて。何かすぐ次のことを考える癖が取れないのです。でもピアノを弾くととっても心が落ち着くので楽しくて弾いています。人様に聞かせられるようなものではないですが。」

好きなことをするとリラックスできますよね。
本日ご来院いただいたのは、リラックスの音楽では効果がないので、別のおくすりで心や体を軽くしたい、リラックスをしたい、そういったことでしょうか?

「はい、そうだと思います。」

それでは処方箋を出しましょう。

猫先生の頭の中。
ニャンニャンニャン、シャー、ニャンニャンニャンニャン。
(和訳)リラックスをするということは心拍数を下げること。そして深い深呼吸。深呼吸をして聴けるような音楽ということはゆったりした音楽。弦楽がいい。四分音符=60もしくはそれ以下。Adagio。Lento。Mesto。雑音が多くない方がいいから、できるだけシンプル。坂本龍一のRevenantのオープニングがパッと浮かんだけど、Carlo Gesualdoも浮かんだ。やっぱり、バロックとか古典派まで戻ろう。

いや。

やけどは痛かったのだろうな。

苦悩があって、葛藤があってからリラックスできる曲をセットで紹介するのはどうだろう。体は少しずつほぐすほうがいい。むしろ活発だったり感情的な部分があって、その後にゆっくりリラックスしていく方がいいのではないか?
であればベートーベンの運命かシェーンベルクの浄夜かワーグナーの前奏と愛の死。すべて初めは短調で最後は長調で終わる。

猫先生

処方箋ですが、シェーンベルク作曲の浄夜という曲があります。

「はい。聴いたことはありません。」

この曲は30分くらいの長い曲で、2部構成です。珍しい形態ですが弦楽六重奏曲という構成です。大雑把に言って初めは短調で悲しい曲です。さいごの半分は長調。とある詩が題材になっていて、忠実に一言一句が音楽になっているわけではないですが、そのイメージを音に変えたものです。

「どんな詩なんですか?」
クリムトの接吻という絵を見たことがありますか?あの時代のあの感じをまず想像してみてください。


「あの絵いいですよね。」

簡潔に詩の内容をいいます。

女性と男性が静かに月夜を歩いています。時々月の光が彼らの影を作ります。その女性が事情があって他の男性の子供を身ごもっていることを告白します。この秘密を、抱えていた悩みを吐き出すかのように。彼女の高ぶる感情と嵐のような美しい月夜の情景が美しい弦楽演奏で描かれています。月の光は高い音の弦が。森を歩いている様子は低い弦が表現しています。

「心が痛みます。」

二人は月をながめます。気がついたら月はもっと高いところにあって、こうこうと二人を照らしているかのようです。

「二人はどうなるんでしょう。」

美しいニ長調の和音で後半部は始まります。チェロが歌う。こう言っているように聞こえます。
「いいんだよ。一緒に子供を育てていこう。」と。ビオラ、チェロと第一と第二バイオリンを聴いていると少しずつ男女が歩み寄っている感じがします。そしてゆっくりとハッピーエンドを迎える。

「想像するだけで綺麗な音楽のように感じます。」

この曲は弦楽六重奏で聴いて、月夜を想像しながら自分の気持ちを入れて、一緒にリラックスをしてみましょう。まずはデーメルの詩を読んでくださいね。この詩から入るってところが大事なんです。まず自分の中で詩の内容を想像することがとっても大事なのです。ドイツ語ですが、ググリましょう。

その後、お風呂の後に毎日15分、途中のニ長調の部分(15分後くらいから)から聴いてみてください。それを一週間できた週末は初めから終わりまで聴いてみましょう。歩きながらでも家事しながらでも構いません。

「よくわかりました。先生ありがとうございました。」

お大事にどうぞ。白衣の猫先生、手を振る。ナースも受付も皆さん手を振る。(招き猫のように。)

この静けさの中、ドアを開けるとチリンとベルが鳴ったが、針葉樹の森の静けさにかき消される。車に乗って一息。森の中から一人、また都会に戻っていく。

おわり

感想はお手柔らかにお願いします。コメントがきつい場合は即削除します^_^猫先生

いいなと思ったら応援しよう!