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ひとかけらの視界、一瞬の感覚
これはうまく言葉にできない感覚だ。それをわかっていながらも書く。
例えばの話、インスタグラムのたった一枚の写真を見た時にパッとわかる時もあるし、その人が書く文章のワンフレーズを読んだだけでそうなる時もある。その人が身を委ねているソファだったり、履いている靴への一見でもそれはあり得る。
この人には、とても素敵な世界がある。
わたしのそれと相通じるひとかけらだ。
やっぱりうまく表現できない。
これは感覚の話であるがゆえ、その度合いが理屈を上回れば上回るほど、適切な言葉が遠のく。上手く説明しようとすればするほど、その中身が軽薄になるような気がして。
この感覚がスパーンと降りてきた時の精密度といったらない。
もちろんそれは、自分にとっての正解という意味での精密度のことを指す。
あえて軽薄に言えば、来た!アタリ!ってやつだ。
それはどんな肩書にも経歴にも惑わされない。そんなことは極めてどうでもいいことだからだ。その人が今までどんなことをしてきて、どんな立場にいようが関係ない。理論や理屈ではなくただ自分が今そう感じていることが全てであり、それしか判断材料はないのだ。
その曖昧さを保ちながらも、その逆パターンもあるから人間の感覚は妙なのである。それはもちろん、逆の不正解度のことだ。たった一枚の写真からでも、たった一文の句読点からでもそれは発露する。この正確さだって侮れない。
思うところ人間はむしろ、この感覚だけで生きていけたら何もかもがスムーズにいくのかもしれない。
されど人はこう考える。
これは損か得か。これは役に立つか。この人は自分に利益をもたらすかと。
そのような天秤思考や計算や数字分析への安心と依存が、人間の原始的感覚を奪う要因なのではないだろうか。
しかしそれらを全てすっ飛ばしてこの世を渡るなんて事は、もちろん至難の技だ。
それでも思う。可能な限り、自分はそれを大切にしたいと。
日常の些細な選択においてなら、出来ることはどれだけでもある。
それを見過ごさないように日々を生きていけたら。
この人生は独特の彩りを重ね、さらに深みのある複雑な色を纏えるのだろう。
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![吉原 紅](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52098113/profile_23b14e0a25f5dabd055268d497b30fb6.jpg?width=600&crop=1:1,smart)