成熟の作法
朝の顔 鏡が映す現実に 溜息よりも淡き微笑を
30代後半のあたりだっただろうか、朝起きたばかりの鏡の顔に失望するようになったのは。朝の眩い光の下に立つと、ありとあらゆる皮膚の粗が強調されることを知ったのもこの頃だった。
照明も同様。蛍光灯の無機質な青白い光は、多少の疲れですら猛烈な疲労に変えてしまう。だから夜の電車にいる仕事帰りの人々などは、多大なる疲労や心労を抱えているように見えるのだ。
他人のことなど言えるものか。類に漏れずわたしも、そのような疲労と心労を抱える一人だった。30代後半。子供たちにはまだまだわたしの手が必要だった。自己に対する劣等感や否定が、家族や仕事への不満を増幅させていた当時。わたしは自分の人生にまつわるあらゆる不遇を、全て他者のせいにして生きていた。
青かった。その青さには自分でも恥ずかしくなる。あの頃のわたしは青々しくも堅い、無知なるパパイヤだった。
顔は青白かったし、頬骨もはっきり際立っていた。目は斜めに吊り上がっていた。
当時の写真を見て驚く。わたしはこんなに、冷たくキツい顔をしていたのかと。
一般的に考えれば、顔に現れる変化のほとんどは加齢のせいにされる。
しかしそうではない。少なくとも、加齢だけが人の顔を衰えさせるのではない。
生き方、考え方、人生に対する姿勢、心の質と中身。これらが老いた自分の顔を決めていく。顔全体のムード、即ち、森の美しさの決め手となるのもそれらなのだ。皺や染みや弛みなどは、木々の経年変化に過ぎない。
日々に不満を見出し、自分の不幸を嘆き、それらを全て他者や環境のせいにしている人の顔には、必ず陰が現れる。顔で人を判断するなという言もあるが、とんでもない綺麗事だと思う。顔を見ればわかる。どう考えてもそっちが明白じゃないの。
わたしは今、45だ。
それでも毎朝、鏡に映る自分の顔に一切の溜息がない。
むしろ、いい感じで年を重ねてるじゃないの。真にそう思っている。
奇妙な話だ。35のわたしは自分の顔の欠点を日々嘆き、それらを隠すことに必死になっていた。
あれが嫌だ、ここが気に入らない、これが無ければ。
顔のパーツだけの話じゃない。世の中や環境に対しても、自分自身に対しても、いつもそう思っていた。
だから、あの顔だったのだ。だから、あの境遇だったのだ。
その理由が完全に附に落ちた今、過去の全ては愛おしいものへと変化した。若きわたしの誤解や過ち、性急さや青臭さ、苦悩や汚点。ありとあらゆる不幸に不埒。
それでも決して自分を諦めなかったことや、責任を自分にぐいっと引っ張ってきた肚決めに関しては、心底誇りを抱いている。グッジョブにも程があるだろと。
加齢を印籠にする人生なんてつまらない。
老いても未熟なんて、そんな反比例はご勘弁。
顔も人生も精神も肉体も、すべては自己責任なんです。
わたしは毎朝ご機嫌さんで鏡を見ていたいし、
好きなものを纏って生きていく。
熟れた人と一緒にいたいから、
青い人のお世話なんてご勘弁。