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傷が祈りに変わるまで
※今回の記事はボイトレとは一切関係ありません。思うままに書いたから、碌でもないかもしれない。w
僕は「愛とは呪い」だと思っている節がある。
誰かを心から大事に思う時、同時にその感情に対する強烈な拒否反応を感じてしまう。
人生に対して苦痛を感じている僕が、他人に希望を与え、『生きる理由』を押し付けることは、どうしようもなく悪じゃあないのか?と。
自分はもう楽にしてほしいと思っているクセに、 誰かに対しては生きていてほしいと願うなんて酷すぎるじゃないか、と…。
けれど今更ながら思い出したことがある。
それは、
僕らは生まれながらにして その「呪い」を背負っているんだってこと。
産まれる直前まで「呪い」をかけられているし、 産まれた直後から親への「無条件の愛」を抱えてしまう。
そう、僕らはもう大なり小なり、呪い呪われている。 既に、はじめから。
そして、 今あなたは生きていて、 この文章を読んでしまっている。
僕はあなたに苦しんで欲しいとは思えないし、
あなたもそう感じてくれているのだろうと思っている。
だから僕ら、呪い合おう。
「君に幸あれ」と。
きっと僕はね、どうしようもなく可哀想なやつなんですよ。
自分にとって何が一番心地よくて、
何が一番嬉しくて、
何が一番楽しいのかを考えた時、
いつもそこには誰かがいるんです。
同様に、
何が一番辛くて、
何が一番許せなくて、
何が一番悲しいのかを考えた時も、
いつもその中心には誰かがいるんです。
価値観を洗練するためにたくさん本を読んだ。
アテない長旅をし、映画やアニメなどの創作に触れた。当然、音楽もやってみた。
けれどいつも足掻くほどに
「自分の幸せがわからない」
ということがわかってしまう。
自分個人の単位では幸も不幸もほとんど感じられないんです。
食べ物の美味しさや、景色の美しさすら感じられなくなるときがある。
それも十数年も前から…。
心がすり減ったからなのか、
それとも誰しもがそうなのか、
僕にはわからない。
「自分の幸福の裏には誰かの犠牲があるのではないか」と怯えているのかもしれない。
僕は、僕に優しくなれない。
だからなのか、
「自分のために何かするということ」が上手くできなくて、それがずっとコンプレックスで。
人付き合いをする上でも、自ら損な役回りを選び取ることが多く、それを「他人軸」だと言われることにも長く苦しんできた。
確かに、
幸せの勘定を考えるとき、僕は僕を後回しにするクセがある。
たとえ自分が被害者であっても「誰かを悪役に仕立てること」に対して凄まじい苦痛を感じるし、
そうなる前に自ら嫌われにいくことすらある。
そうしない人には、
「わかっているのなら今すぐ変えればいいのに」と不思議と思われることでしょう。
もちろん、自分を幸せにするのは自分の責任というのもわかってはいるんですよ?
でもね、
できないんですよ。
僕は、自分自身を愛せないから。
自分の無知や非力さと向き合いすぎた。
きっと色々な余計なことを考えすぎてしまった。
かつて受けた「心のキズ」が、
僕を極端に論理的に、
そして感情を押し殺す存在へと育ててしまった。
結果、自身の感性すら信じられない自分が残った。
僕はまだ一桁歳の幼年から、重要な関係を引き裂かれ、信仰を強制され、社会の残酷な事実に対する理解までもを強要されてきた。
そんな子どもが、まだランドセルを背負っている頃にも、能力を否定され、恫喝され、虐められ省かれてきたらどうなるだろうか?
…これ以上は、ここには書けない。
当事者以外には想像すら難いと思うし、
それに本当の問題はそんなことではない。
本当の問題は、そう言った理不尽を
まだ幼かった僕が真正面から受け止めてきたということだ。
伝わらない人もいるかもしれないけれど、
”あらゆる事実を真正面から受け止める”というのは本当に気がおかしくなる。
いっそ捻くれた方が身が守られるんだ。
逃避も曲解も必要なもので、それがないと心は壊れてしまう。
幼い僕は、愚かにも向き合い続けた。
安易に納得せず、感情に流されず、理解するよう努めた。
自分事でない出来事であれば、あるほどに。
多くの理不尽や他人のバックグラウンドを推察、想像し、その結果や思想などに至るまでの理由を知り尽くそうとした。
善意でも悪意でも、その背景まで理解しようと努力してしまった。
なぜそこまでしたのか?
自分を追い込むような無茶な真似をしたのか?
他人を大事にしたかったんですよ。
ただ自分を大事にされたいなら、他にいくらでもやりようがあった。
でも僕はどうしても自分の無知や無能を許せなかったし、一度見知ってしまった事実を忘れてまでは幻想に酔えなかった。
とても幼稚な妄想なのかもしれない。
それでも自分のためだけに生きるのではなく、
他者の痛みを理解し、支えるために生きたいと思ってしまった。
それが僕の選んだ生き方であり、僕が己の非力さと世の理不尽さを受け入れるための唯一の方法だった。
いつしか、僕はこの苦しみを利用することにしていた。
「他の人が見れないものを見てしまう、感じえないものを感じえてしまうのなら、僕は誰かの目となり耳となろう」
「現実と向き合いたいと願う誰かが何かに立ち向かおうとしているとき、そのことを誰より理解できる人間になろう」
そうやって、
「消すことのできない心のキズ」と、
「この身に絡み付いた愛という呪い」を、
「祈りの糧」にして、
険しい道を歩もうと決めた。
そんな想いが僕を今の仕事に導いたのかもしれない。
どうせ苦しむのなら、人の何倍も苦しみ、
その分、誰かの苦痛を理解しよう。
そして、
その痛みを共感という呪いで癒すのだ。
たとえ見捨てられ、忘れられても。
また、呪われてしまったとしても。
…ところで、
「碌でもない」という言葉の「碌」とは「価値がない」「役に立たない」という意味らしい。
どうやら僕は「碌でもない」わけではないらしい。
なぜなら、
ここまで読んでくれたあなたがいるから。
「そんなあなたに、心からの幸あれ。」
今、あなたが、
どれほどの苦しみの最中にあろうとも。
そう祈り、僕は歌っていくのだろう。
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![Yoshiki /Vocal coach](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/44848171/profile_524f9a855a37d53383dc806ac8e271cd.png?width=600&crop=1:1,smart)