恐怖のコロナウィルスは友人になった

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コロナによる第一次緊急事態宣言が行われたのは昨年2020年の4月7日で4月16日には対象が全国に拡大された。
最初の時期には人々はただ無防備に恐れおののくことしかできずパンデミックが発生していることも簡単に受けいることはできなかった。
感染症や伝染病が世界的に大流行している?そんな映画のような世界が起こるわけがない。病院の病床数が足らない?もし病気になったらどうする?志村けんがコロナで死んだ?昨日までテレビで笑いを振りまいていたあの男が? 岡江久美子は亡くなっても身内は死に目に会えずお骨になって帰って来た?
この日本、そして世界はこれからどうなっていくのだろう。ニュースは人々の不安を煽り続ける。
いや、きっとすぐに終わるだろう。すぐに友人たちと楽しく語らいながら酒を飲める日が戻ってくるに違いない。そうあって欲しい、我慢だ、今は我慢することが大事だと思いながら自粛を続けた。
「今は自粛期間中なんだからダメだ」常に心に蓋をしそれを免罪符にしながら夕方には無気力状態に陥りコロナの中に閉じこもっていった。何かが始まる予感がしたあの夕闇はなくなった。
そんな人々の行動をコロナウィルスは嘲笑いながら増え続け、人々をまるで流刑され隔離されているというような感じにさせた。
皮肉なことに無駄な会議はオンラインで行われるようになったことがストレスも軽減され、今まであのような時間の無駄をやっていたことがむしろ不思議だった。
将来の生活に見通しは見出せないがそれは自分だけではなく飲食店や観光産業に関わっている人々はもっと大変な目にあい不安を抱えながら頑張っている、自分だけじゃないんだという妙な安心感、そして一体感。
そして自分は感染するわけがないという能天気な根拠のない自信。自分の周りだけという狭い世界に感染者がいないからという理由だけで実はコロナは存在しないのではないかという幼稚で軽薄なメンタリティ。ニュース映像は全て映画や誰かが創作した出来の悪い小説、そう考えてしまう、いや思い込んでしまう絶望的な頭の悪さと想像力の欠如。
もしかしたらコロナはかなりまずい感染症なのかもしれないと気がついたのは一年以上経った最近だという理解力が遅い奴ら。
そんな恐怖と絶望感、そしてギャグが混じり合ったまさに劇画のような生活も一年以上続くと慣れてしまうのか心地良ささえ感じてしまう。不安はあっても人は楽なことの方を好むものだ。むしろ激務が当たり前だったあの生活にまた戻れるのだろうかという恐怖。
悪夢のような自粛生活の閉塞感、ワクチン摂取も始まりコロナの収束が少し見えてきたことへの希望、新たな変異ウィルスによる恐怖、普通の生活へ戻ることへの期待と憎悪の感情。それらが錯綜されて雨が降っている朝などはどうしようもない不安に陥ってしまい訳もなく街を徘徊する。まるで街のどこかにあるはずの安らぎや安心を見つけ出しに行くように歩き続ける。
だが人々は相変わらず今まで通りの慣れてしまったお決まりの毎日、つまり昨日と同じ生活、コロナと共にある世界に戻っていくのだ。もうコロナウィルスは我々の友人になったのかもしれない。


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