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【掌編小説】その甘さを、噛み砕く

 高校時代の同級生のひとりを、黒ごまの男、として記憶している。本名は確か藤田だったか藤井だったか、そんな感じの出席番号の後半の苗字だった。下の名前は憶えていない。

 そんな香ばしい呼び方の切っ掛けになった出来事が起きたのは、少なくとも寒い季節ではなかったはずだ。記憶の中の私自身も、黒ごまの男、あるいは藤田あるいは藤井(仮に藤田と呼ぶことにしよう)も半袖だったと思うから。蝉の声でも記憶に残っていれば、夏だと確定できるんだけど、まあ、そんなことはどうでも良い。
 大事なのは、放課後の教室で私が泣きじゃくっていたということ。そして、そのみっともない姿を、不覚にも藤田(仮)に見られてしまったということだ。

 そうだ、音の記憶がないのは、それだけ衝撃的だったからだろう。

 親しくもないクラスメイト、それも男子に泣き顔を見られる、ということは、女子高生にとってはすべての音が吹き飛ぶくらいの一大事なのだ。泣いていた理由はまったく思い出せない癖に。どうせ部活か成績か、そうでなければ友だちに無視とか誤解されたとか、そのていどの理由でしかなかっただろうに、少し面白い。裸を覗かれた時のような目つきで睨まれたであろう藤田(仮)には、気の毒なことだっただろうけれど。

 藤田(仮)もことの重大性は十分に分かっていたようだった。ぎゅいん、と音を立てそうな勢いで背けられた顔、三白眼ぎみの目。焼けた浅黒い肌が赤く染まって、ごつごつした手が口元を押さえて──そんな羞恥と狼狽の仕草や表情がやけに目に焼き付いている。
 私は、何も言えなかった。藤田(仮)も、あ、とか、えっと、とか呻くだけだった。賢明だ。何をどう慰めようと、あの時の私にはひどい侮辱としか思えなかっただろうし、藤田(仮)もそれはよく分かっていたことだろう。

 だから、奴が次にやったのはとてつもなく勇気がある行動だったと思う。

「これ」

 低く短く言うなり、藤田(仮)は握った拳をぐいと私に突き出したのだ。日焼けといい拳のごつさといい、奴は運動部だったのかもしれない。

「……がと?」

 奴の拳から零れた何かを受け取って。まともに礼を言うことさえできなかった私に背を向けて、藤田(仮)は足早に教室を去っていった。そういえば、奴は忘れ物なりを取りに来たところではなかったんだろうか。だとしたら私はとんだ邪魔ものだったことになる。

 とにかく。私の掌に落とされたのが、奴の、私の中での勝手な呼び名の理由だった。

 黒ごま。と、でかでかと書かれた飴。捻ったセロハンの両端は市松模様がプリントされていて、飴を包んだ中心の部分は透けていた。飴そのものは、いったいどんな加工をしたのか金属質な銀色が西日に輝いていた。ということは、日が沈み始める頃だったようだ。

 黒ごまの男、あるいは藤田あるいは藤井は、「これ」で私を慰めようとしてくれたらしい、とは何となく察した。花より団子。赤の他人からの上っ面の言葉よりも甘いもの。たぶん、正解ではある。男子高校生にしてはとても気が利いている、と今なら言える。

 ただ、当時の私が真っ先に抱いた感想は、おばあちゃんかよ、だった。飴って。黒ごまって。フォントもまったく飾り気なくて、包装も素朴そのもので、おばあちゃんがお仏壇にお供えしてそうなお菓子、と思った。私は祖父母と同居していたわけではなかったから、ただのイメージなんだけど。

 戸惑いながら包装を剝がすと、掌に載せた飴はほんのり温かった。藤田(仮)の体温だ、と思うと悪いけどちょっと気持ち悪かった。ただ、飴は綺麗だった。
 細く伸ばしてから、機械か鋏で切り分けていく製法なのだろうか。長方形のシルエットの、短辺は直線的に断ち切られていた。銀色の輝きも相まって、何かの部品みたい。ものすごく良く言えば、宝石か何かの結晶のよう、と言えなくもない。中心に黒いものが透けているのは、黒ごまのペーストのようだった。別に、好き好んで食べる味ではない。そもそもあの頃の私は黒ごま味のお菓子をまともに味わったことがあっただろうか。

 でも、せっかくもらったんだから。捨てるのも気が咎めるから。

 誰にとも、何にともなく言い訳して、口に放り込んだ味のことは覚えている。
 包装の見た目通りの、素朴な優しい砂糖の甘さ。舌で転がすうちに溶けて崩れて、次いで黒ごまのペーストが口の中に粘りつく。泣いた後で干上がった喉には、噎せそうなほどの強い甘味だった。というか実際に噎せた。それで、泣いていた理由も吹き飛んだ。

 そういうわけで、あの体育会系っぽい無骨な男子は、おばあちゃんみたいな昔ながらの飴を常備していて、しかも泣いてる女子に差し出すような面白い男、という認識で私の脳に刻み込まれた。言い換えれば、初恋だった。
 


 そんなことがあったのを思い出したのは、久しぶりだった。私は結局、藤田(仮)に何のアプローチもしなかった。ただちょっと良いなって思って意識しただけ。案の定というか、卒業後は一度も会っていない。脳裏に浮かべたことさえない可能性すらある。

 とはいえ、思い出した理由は、はっきりしている。

 私の目の前に、四角いお盆に載った蕎麦の膳が鎮座している。蕎麦を平らげた後の空のざる、そばつゆ、わさびとネギの小皿。それから、デザートだか箸休めとして、花をかたどった小皿に飴がふたつ。セロハンの両端の市松模様に、金属質の銀の輝き。どこでも見る無難なフォントは、今ならゴシック体と呼ぶと知っている。

 セロハンの端、市松模様のところを摘まんで持ち上げてみると、あの日喉を焼いた強い甘さが蘇ってそばつゆとわさびの後味を押し流す。それは、思い出が浮かび上がって今、目の前に現れるような感覚。何年も会っていない同級生に、思いがけず再会したような気分だった。もちろん飴は飴であって、藤田(仮)本人には何の関係もないのだけど。

「深大寺の、名物なのかな? 有平糖っていうんだってさ。そこの売店で売ってた」
「そうなんだ」

 何年振りかの「再会」、その感慨に耽っていたから、東君への答えは上の空になる。

 深大寺に来たのは、たまたまだった。東君と、蕎麦が食べたいね、って話になって、どうせならちょっと遠出しようか、ってなって。落ち着いたところが良いよね、とも言ったし、縁結びのお寺だってところも話の種になりそうだった。そんな感じで、決めた。 私と彼とは恋人同士ではないと思うんだけど、たぶんこれからそうなるだろうな、という雰囲気がある。だから並んでお賽銭を入れて手を合わせた後、こうして向かい合ってそばを啜って、そんな雰囲気を一段階濃くしたところだった。

「お腹いっぱい? これ、持って帰っても良いのかな」
「これくらい入るって。今、食べちゃう」

 気の置けない会話、と言って良いであろうやり取りを交わしながら、私は黒ごまの男、あるいは藤田あるいは藤井のことを考える。

 奴の家族か友だちが、深大寺に行ったばかりだったんだろう。それで、お土産をもらった、ってところかな。道理でその辺のスーパーやコンビニで見かけないと思った。

 初恋の相手について、何年越しかでほんの小さな情報が入ったのは、満腹感と相まって訳もない満足感をもたらした。
 もちろん、東君には言わないけど。ただ、この人は私の泣き顔に出くわしたらどんな顔をして、何をしてくれるだろう、とちらりと思う。目の前でにこやかに笑う東君と、藤田(仮)の赤くなった横顔を重ねるのは──けれど、無意味なことだろう。

 私はもう大人で、人前で泣いたりしないのだから。不意に見せられた素朴な優しさなんかでやられるような、可愛らしい恋はもうしないのだから。

「これ、噛める飴なんだってさ。外の売店に書いてあった。食感が面白いんだって」
「へえ、そうなんだ」

 内容ゼロの相槌を繰り返して、私はセロハンを剥がした。途端に、黒ごまの香りがぶわっと鼻先に漂った。噛める飴、だって? 前の時は、口の中で溶け崩れるまで大事に味わってけど、今は東君の情報を受けて、奥歯の間に挟んで、思い切り顎に力を入れてみる。

 ああ、なるほど。こんな感じ。

 普通の飴の硬さはなくて、歯の間であっさりと砕け散る。儚いけれど、氷のように一瞬で溶けるということでもなくて、しゃりしゃりとした歯触りと舌触りは、確かに楽しい。そこに、黒ごまの濃厚な香りと甘さが絡みつく。あの日と同じ味、だろうか。もっと甘かった? 香ばしかった? よく分からない。覚えているつもりだっただけかもしれない。

 懐かしいはずの甘さと初恋の思い出を、私は噛み砕いて呑み込んだ。

あとがき

 第20回深大寺恋物語の落選作の供養です。有平糖は深大寺門前の「そばごちそう門前」さんでいただきました。素朴な甘さと楽しい食感の組み合わせが癖になりそうな甘味です。

 調べてみたところ、黒ごま以外にも色々な味があるようです。試してみたいものです。

 ヘッダー画像は、神代植物公園の大温室内の蓮池です。訪ねた時に自身で撮影したものです。

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