お散歩日記 6日目
今日の頭の中
生きる力を身につけたい
「生きる力」を育む教育が望まれている今、自分自身も「生きる力」を育まなければいけないと思う。では「生きる力」とは何だろう。私は「予想のつかない大きな出来事が起こったとしても、それにひたと向き合いわかろうとして乗り越えていく力」なのではないかと思っている。簡単に言えば、わからないことをわかろうとすることが大切なのだと思っている。わかったような顔はしたくない。そもそも、まだ今の私にはわかったような顔のできる知識や教養はないに等しいけれど、もし、それらを手にしたとしても決してわかったような顔はしたくない。「みんなも気づかなきゃ!」と口に出して言う人が苦手だ。気づいていることが偉いかのように聞こえるし、その気付き自体合っているかどうかも本来わからないのに、自分の気づいたことが正しいからみんなも気づいた方がいいと言っているように、私には聞こえる。苦手である。私は何かおかしいと思ったことや、わからないと思ったことに、自分なりのわかり方をしたいし、それがよいものだと思うのならば、私のあり方を通して体現したい。もちろん言葉にすることもあるだろうけれど、そのときには「気づかなきゃ!」ではなく、「あなたはどう考える?」と問いたい。そして、あなたの考えと私の考え方とを混ぜ合わせて、濾過して濁りを取り除いて、少しでも澄んだ新たな私の考えを手に入れたい。本当に澄んだ考えなんてものは、いつまで経っても手に入れることはできないのだから、混ぜて濾過してを繰り返したい。そう考えると、いろんな人に会ったり考えに触れたり、しなきゃいけないなぁと思う。家にこもってばかりじゃいられない、と思い始める今日この頃。
「私が緑です!」と主張する街路樹
街路樹は、行政から「私が緑です!」と主張してくださいと指示されているように感じられる。うがった見方をしすぎである。もっと自然な緑がみたい。地面から自然と生えているということにこだわっている訳ではなくて、例えば、誰かが大事に育てたプランターが家の前に置かれているのでもいい。ここでいう「自然」の緑というのは、大自然などの意味で使われる自然ではなくて、自発的なという意味での自然である。街路樹は、自発的な自然でないことをひしひしと感じてしまう。あること自体が悪いことではないのだが、「訳あって植えられた感」が感じられて植物自体もかわいそうに思えたりする。一方で「自発的な自然」は背後に人の気配を感じても、その背景自体がその人の中に無理なくわき上がる感情から生み出されている気がするのである。人間の自然から生まれる緑の自然なのである。そういう緑は、大自然の緑と同じように爽やかで元気をくれるように思える。
今日はこのくらい。6日間書いてみて「30分で1000字」くらいが、書くのにも考えるのにも心地いいペースであることがわかり始めた気がする。明日で1週間か。以外と早いな。