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お散歩日記 1日目
お散歩日記、はじまりはじまり。
ここ数年ずっとお世話になっている人から、「君はとりあえず散歩をした方がいい。それと、風呂上がりのストレッチも。」と言われた。確かに、このところ運動不足極まりない。そして、この方からは「君は何か文章を書いた方がいい。」とも、以前言われた。確かに文章を書くのは嫌いではない。むしろ、多分、好きなのだと思う。言い切るのが怖いから、「多分」とかつけてしまうけれど、本当に好きだと思う。これからもずっと関わっていたいと思っている方から、「君はこれをやった方がいい!」と言われたことは、おそらく本当にやった方がいいことのように思える。松浦弥太郎さんもそう言ってた。だから、やってみることにする。
行動には4種類しかないと思っている。「やってみる」「続けてみる」「やめてみる」「また、やってみる」の4つである。あたりまえのことなのだけれど、気づいたときには私にとっては「大発見!」ともいえるようなものだった。ただ、最近また、気づいてしまった。「やってみる」が先に立たないと、あとの3つは生まれないということだ。これまた、大変あたりまえである。
宿題を出してもらいたがり
人から言われないと1歩目がなかなか踏み出せない私は、まだ、先生に宿題を出してもらいたがっている生徒みたいだ。実際に生徒だったころは「宿題なんか嫌だ~」と思っていたのに、今になって誰かから「これをやってみたら?」と言われたがっているという事実からは、「いつだってないものねだり感」を感じざるを得ない。
誰かに提示してもらえると、ちょっぴり安心して取り組むことができる。私が信じている人が私に勧めてくれることは、私にとってきっといいこと。という謎の信頼感がある。自分のことはあまり信じられないくせに、私が信頼している人の言葉を信じるのだから、そんな回り道していないで自分のことを信じてみろよ。とも思う。簡単に言えば、臆病でびびりなのだ。私のことをしっかり見てくれているであろうひとが差し伸べてくれた手を、いつまでも見つめていたら現状は何も変わらない。それは十分に理解しているつもりである。だから、差し伸べられた手に引かれるように1歩目を出してみてもいいのではないかと思う。幸い、私の周りにはまだ手を差し伸べてくれる方がいる。だから、ありがたく、その手を取る。(ちなみにお散歩を初めてこれを書き始めただけ。大変大げさな表現ですね。)
やってみたいことのぼんやり感
やってみたいことは、ある。あるのだけれど、何からはじめていいかわからない。そんな気持ちがずっとしている。やってみたいことに関する「手」は差し伸べられるというよりは、こちらから握手しに行くような感覚がある。きっとそれは、「やってみたい」ことだからだと思う。(同じこと言ってる…!) 握手しに行く方向がわからなかったり勇気が湧かなかったりするのなら、一旦、信じている人の手を取ることを優先させようと思う。(何度も言うようだが、お散歩をしてこれを書き始めただけ。) そうしてやってみたことは、きっと私の心の中を耕していい感じの地盤をつくってくれる。
今日の散歩で考えたこと
散歩をしなかった理由・する理由
なぜ私がこれまで散歩をあまりしなかったのか、ということを歩きながらぼんやり考えていた。そういう習慣がなかったよなぁということが、まず浮かんだ。では、なぜそういう習慣がないのだろうか。単に、歩く人が周りにあまりいなかったからかもしれない。はたまた、歩くことの良さを私が軽視していたのかもしれない。早朝の澄んだ空気、川の流れる音、水面の輝き、汗ばむことの心地良さ。幼い頃を思い出すような思いがした。懐かしさ漂う民家には可愛らしい郵便受けがあったり、土手から川まで降りられる階段を見つけたり…。小さな頃にしていた思わぬところに思わぬものを見つける大冒険を、大人になっても楽しむことができた。小さな頃の「思わぬ」ことは大人になったら「思わぬ」ことではなくなって新鮮さを感じられないものだと思っていた。「心地よさ」は変わらずそこにあるし、散歩を始めたての今だからかもしれないけれど「思わぬ」ことは案外多くある。忘れていた感覚を取り戻すと同時に、歩くことに対する勘違いにも気づいた。
これからは、歩こうと思う。単純に今、気分がすがすがしいし、早起きできるし一石二鳥。心地良さと思わぬ出会いを日々積み重ねていきたい。
「かもしれない」を頭に飼う
歩いている最中、「かもしれない」が頭の中で歩き回っていた。言葉にならないあれやこれやが、ぐるぐる、ぐるぐる。私はこの「かもしれない」を好きだったり嫌いだったりする。おぬし面白いこと考えるじゃないか、と思ったり、お前ぐずぐずしてないではっきりしろよ、と思ったりする。言動や決断が遅いのは頭の中の「かもしれない」が、ああでもないこうでもないと頭の中を歩き回っているからなのかもしれない。また、あらわれた「かもしれない」。私は「かもしれない」を飼い慣らしたい。きっとこの「かもしれない」を上手に飼い慣らせたら、もっと考えていたいことと決めて進んでいくことをどちらも愛おしめる気がする。よーしよしよしよし(わしゃわしゃ)ってしながら、「『かもしれない』今どうしたい?そうかそうか!」って、いつかできるようになるかな。
はじめてのお散歩日記はここまで。とりあえず10日続けてみる、かもしれない。笑