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「料理道場」への想い

生成AIにより作成

私は最初、菜乙女塾ではなく「菜乙女道場」を立ち上げたいと思いました。
現在、一般的には「料理教室」が多く存在しますが、私は「料理教室」とは異なる場所として、料理を深く学ぶ「道場」という場が必要ではないかと思うようになったからです。一般の「料理教室」では料理に関する理論や料理の技術を学びますが、「料理道場」では、その奥にある心の在り方や精神性に触れる場所を目指しています。

現段階では「菜乙女塾」という形でオンライン配信を通して料理の学びをお届けし始めていますが、いずれ本物の「道場」としての場所を開き、料理の道を深く追求する人たちと共に歩んでいきたいと願っています。

料理を「道」として学ぶ道場の必要性

日本には古くから茶道、華道、書道、

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武道といった「道」の文化があります。これらは単なるスキル習得ではなく、師弟関係を通じて自己を磨き、人生を通してその道を追求する独自の学びの場です。私の主観では、日本における料理というものも同様に、ただの技術や知識の集積ではなく、まさに「道」として追求すべきものだと感じています。
特に日本の伝統料理には、師から弟子へと技と心を磨き上げていく関係性が深く根付いており、道場としての要素の方が強いと感じています。「料理道」としてその奥深い道を追求していくやり方の方がより日本らしくふさわしいという思いがあります。

学校教育と異なる「道」の学び
学校での教育は、先生から与えられた問題に対して解答を見つけ出し、結果を求めるものです。しかし、私は料理という物は答えや結果のような「完成物」とは違う物だと感じています。むしろ、料理とは生きている限り終わることのない道のように、突き進めば進むほどその奥深さを知り、更に道が奥深く感じる不思議なものです。日々の生活と切り離せない文化や生き方と深く結びついているため、答えのない奥深いものだと思います。
菜乙女道場では、武道での稽古のように、料理という所作の中に武道の動作や考え方、心の使い方を取り入れ、「教室」では味わえない学びの場を提供することを目指しています。武道の修行では、同じ型を繰り返し稽古しながらも、その時々で同じはずの型の中身は学ぶテーマや見方によってその人にとって全く違うものに変化し、また新しい課題を作ります。料理もまた、繰り返し作り続けることで常に新しい発見があります。そしてその学びは、ただ技術に偏ることなく、相手への心遣いや配慮が何よりも重要なのです。

料理に「答え」はない
料理には「答え」がないと私は思っております。料理を学ぶ時はついつい技術に走り勝ちになってしまいますが、料理は技術ではなく心遣いが肝要だと感じています。どれだけ自分が美味しいと感じても、それをそのまま相手に押し付けてしまっては、真に良い料理とは言えないでしょう。相手のことを知り、その人のために作ることが料理の上達の鍵になります。そういう意味でも、料理には答えというものはなく、一つの道として存在しています。私は、一緒に追求していく仲間たちと、まるで同志のようにこの終わりのない道を追求していきたいという思いを込めて、菜乙女「道場」という名前を付けたいと思うようになりました。

料理の道に「達人」はいない
私は「達人」になることを目指しているわけではありません。なぜなら、料理というものはもっと身近で誰でも出来るものでないといけないと思うからです。「達人だから料理がうまい」ということでは、美味しい料理は広まらないからです。むしろ、料理の「道」とは、誰もが日常的に歩み続けるものであってほしいと思っております。

私が心身統一合気道という流派の合気道の稽古に通い始めた頃に、武道が持つ「道」という考え方に共感を持ち、料理もまた一つの「道」だと感じました。今はまだ指導者としての資格どころか段も取得していないため、道場を開くまで及んだ身ではありません。将来合気道の段を取り指導者としての資格を得た時に「道場」を開きたいと思いながら、この早乙女塾の記事を書いています。

本日は以上になります。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


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