世界の終わりに悟る、砂漠と銀河街の孤独
大学生活最後の夏、ナイル川の夕陽を見た。
日中は息が詰まるほどに気温が上がり砂埃が舞うエジプトは、黄昏時を超えると急速に涼しくなり、やがて暗く冷たい静けさに包まれた夜が訪れる。
昼と夜、光と影、生と死の狭間にナイルに浮かぶ茜色の恒星は、その穏やかな陽光が照らしている全ての生きとし生けるものを優しい眠りにいざなう真珠のようだ。
ひたひたと忍び寄る闇に染められてゆく草木の影を肌で感じながら、何千年も昔、同じようにナイルの温かさと冷やかさに包まれながら、この地で生き抜くことを選び豊かな文化を育んだ人類を想う。
もしも運良くこの世界が終わる瞬間に生を得ていたならば、最期はこの光に見守られながら砂地に沈んでいきたいと思った。
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SEKAI NO OWARIというアーティストがいる。
精神病を患い、閉鎖病棟で生きる意味を見失った苦しみの瀬戸際に、終わりから始まる物語があると信じた音楽家によって創られたJ-POPバンドである。
結成して15年以上経つベテランアーティストで、特徴的な憂いを帯びたコード進行と美しくも残酷なことばの数々を透き通った歌声が包み込む唯一無二の音楽性で、数々のヒット曲を世に送り出している。
今から10年前、それまでクラシックピアノに浸されていた中学1年生の私が、初めてJ-POPに興味を持つきっかけとなったアーティストだ。
幻の命から始まり、RPGや炎と森のカーニバルなどのヒット曲を生み出して『Tree』がオリコンで1位を獲得した勢いのある時代、その後日本を飛び出しながら『Eye』『Lip』で独創的な世界観を確固たるものとした時代、ドラマやCMの主題歌を手掛けて誰もが名を知るベテラングループに成長した時代まで、陰ながら追い続けてきた。
悶々とした苛立ちを抱えていた思春期も、中高時代を捧げた部活動の厳しさに心が折れそうになった時も、大切な人の優しさに触れて人生の温かみを知った時も、気付けば彼らの音楽が傍にあった。
私が一番心惹かれるのは、『Eye』『Lip』時代の音楽だ。
インディーズバンドとしての初々しい魅力が磨かれた先で「ウケる音楽」に傾倒していた(と私が解釈している)セカオワは、この時代に一度、自分たちの存在意義に立ち返り、何層にも重なる音楽性のベールを丁寧に剥がして成熟している。
万人の耳に刺激的な音楽ではなくとも、世界の終わりを悟ったあの頃のドロドロとした苦しみに正解を見出そうと、魂を削るような創作活動を行った時期ではないかと思うのだ。
『Lip』に収録されている、千夜一夜物語という曲がある。ボーカルのFukaseではなく、ピアニストのSaoriが作詞作曲している。
オーボエとファゴットの美しい掛け合いにはじまり、ハープとピアノの音が光りながら、弦楽器の重厚なハーモニーに包まれて、Saoriらしい素直なストーリー性のあることばが散りばめられている。
砂埃で煙る地に恵みをもたらすナイル川の悠々とした流れを染め上げる黄昏の陽光は、このことばの意味を考えさせる。
見渡す限りの金世界は、ちっぽけな星に仮住まいする人間の孤独を突きつける残酷さがある。
やがて訪れる長い夜を包み込む星空のタペストリーは、太古の昔から変わらず、かたわれ時の溜息を編み込んでいく。
どうしようもない、本当にどうしようもない、いかにも人間らしい泥臭い感情は、世界の終わりを覚悟した人間だけが、優しいことばで昇華させられるのかもしれない。
だから、そこに至るまでの道程は、血の滲むような山道であったに違いない。
『Eye』『Lip』という覚悟に辿り着く直前にリリースされた、銀河街の悪夢という曲がある。
私はこの曲を、セカオワ史上最も苦しい音楽と解釈している。
歌詞には含まれていないが、この曲は「いってきます」というFukaseの台詞からはじまり、最後に「ただいま」と声が入る。
『Eye』『Lip』というひとつの境地に辿り着くまでに彼らが向き合った地獄の片鱗が、そしてその先にある諦念に近い心の有り様が垣間見える。
きっと私は、世界の在り方を考え続けてしまう人間だ。それは、世界の終わりを知らない幸せな人間の尾ひれに過ぎないのかもしれない。
けれど私は少なくとも、「いってきます」すら言えていない人間ではないと信じたいのだ。
ナイルの夕陽は、そんな贅沢な苦しさを突きつけられた人間を、静かな優しさで見守っている。
なんとも美しく、豊かな世界だ。