【カノッサの屈辱】恋愛ゲーム史(1979~1996) 土器メキと中央集恋体制の確立(2)
[我々日本人が、趣味を目的とした、自分用のコンピューターを持つことが出来るようになったのは、1980年前後のことだといわれている。それと時を…]
※ こちらはpart.2です、part.1よりお読みください!
Ⅰ.先土器メキ時代 《AC1979~1984》
我々日本人が、趣味を目的とした、自分用のコンピューターを持つことが出来るようになったのは、1980年前後のことだといわれている。それと時を同じくするかのように、あるものが産声を上げる。
美少女ゲームである。
日本初の美少女ゲームは、「野球拳」であったといわれている。まだモノクロ出力でしかなかった、パソコンモニタ上に描かれた裸の少女。当時は、今日のようにペイントソフトによって描くというものではなく、コンピューターに点の座標を直接入力することによって絵を作成していたという。
このような古代人たちが性の衝動を刻みつけた、きわめて原始的なコンピューターグラフィックスのことを我々考古学者は「癖画」 と呼んでいる。
こういった癖画を描くにあたって古代人たちは、絵とは似ても似つぬ数字の羅列を延々と入力し続けなければならなかったという。その労力は極めて甚大であり、当時彼等は何故これだけ途方もない労を払ってまで、わざわざコンピューター上に裸の少女を描かなければならなかったのか、今日の我々にとってもはや知る由もない。
盗まれたダッチワイフの回収を依頼された私立探偵が、歌舞伎町で出会った女性たちと次々性行為に及びつつ、任務を遂行する 「オランダ妻は電気ウナギの夢を見るか?」や、川崎市新丸子に本社を置く、避妊具会社の北千住営業所のセールスマンとなって、ニュー越谷団地の人妻たちに、避妊具を自分の身体を張って訪問販売するという、やたらと細かい設定を持つ「団地妻の誘惑」。
さらには、幼女に対して浣腸などのお医者さんゴッコの果てに、そのクローン人間を作成するという「マイ・ロリータ」や、美少女たちが待ちかまえるメゾンロリータで、失敗するとその少女たちが死亡するというミニゲームをクリアすることによって、少女の裸を写真撮影できるという「ロリータ・シンドローム」など、この当時の美少女ゲームには、美少女のキャラクター性や相手との擬似恋愛に胸ときめかせる、などといったものはまだ存在せず、少女の裸、もしくは生殖行為のみを目的としていた。この時代を 「先土器メキ時代」 という。
またこの当時、光栄やエニックスなど、のちに美少女ゲームやアダルトゲームと袂を分かつこととなる会社が、これらのソフトを販売していたという事実を、我々は決して見逃すことができない。
Ⅱ.定問土器メキ時代 《AC1985~1986》
人類にとって疑似恋愛などといった土器メキのいまだ存在しない、先土器メキ時代は古代のコンピューター普及とともに長らく続いていた。そんな中初めて、「恋愛」をテーマとしたゲームが登場する。
1985年に小西六エニックスより発売された 「土器ょうナンパストリート」 が、それである。
「土器ょうナンパストリート」は恋愛をテーマとしたゲームではあったものの、まだこの段階に於いては、現在のような美少女キャラとの擬似恋愛を提供するものには至っていなかった。
このゲーム中に於いて、プレーヤーは街に出て女の子をナンパ、すなわち 狩猟採取 し、喫茶店でお茶して、さらにはホテルへと連れ込み、そこで最終目的である 生殖行為 へといかに達するのか、その過程の疑似体験を目的としていた。
この時、女の子からのあらかじめ定められた問いかけに対し、正しい選択肢・行動を選び続けることによって、相手の感情を高め、生殖行為に及ぶことが可能となる。このような恋愛ゲームを 「定問土器メキ」 という。今なお作られ続けている「定問土器メキ」の起源をこの「土器ょうナンパストリート」に求める研究者も多い。
しかしまだこの時点では、美少女のキャラクター性といったものは皆無であり、攻略可能キャラではないオカマも含め55人もの登場キャラクターを、たった5種類の絵の使い回しで表現していたという。当時の文献である「ホットドッグプレス」によれば、『現実と同様、かなりシビアにできている』という、現在の恋愛ゲームでは考えられない、現実の恋愛の厳しさを反映する内容であった。
またこの当時、ゲームの媒体としてカセットテープが広く用いられていた。そのため今日とは異なり、ダブルデッキのラジカセで簡単にコピーが出来たという。当時の人々は、そのコピー用のカセットテープ代さえも惜しみ、1円でも安いテープを求め秋葉原中を徘徊したという。