見出し画像

「型」や「枠」にはめる教育の是非

「子供を型にはめてはいけない」とか「型にはめる教育」という表現があります。
公教育を批判するのによく使われるレトリックです。

為政者の「型」にはめて、子弟を国家に隷従する、あるいは忠誠を誓うように教育することを言うのでしょう。
「型」までいかなくても「枠」にはめる教育と言うのもある。

「型」だと、まったく自由のない、金太郎あめのような子供ができそうだ。
「枠」だとあるていど、子供たちがその中で膨らめそうだ。

ま、そんなところでしょうかね。

あたしは実は「型」や「枠」を教育に必要だと思ってます。
踊りの所作や、空手の型など、「型」が大切な分野の教育を見れば明らかです。
「型破り」というのは「型」があるから「型破り」なのです。
基本が大事。
書道でも楷書が書けないうちは、行草にいかない。
行かせてもらえない。

碁や将棋でも「定石」とか「定跡」があるでしょう?でもそれだけでは勝てません。それらを知った上で相手に合わせて臨機応変に石を置き、または駒を動かすのでした。

教育は先達の「型」を教える場です。
それが正しいか間違っているかは、生徒にはわからない。
そして同時に、教える側は、教わったことを疑って、「型破り」もしくは「枠にはまらない」生徒になってほしいと願っている。
その意味で「型」や「枠」を教えるのだと思います。
あたしも学生時代は盲目的に先生の言うことを鵜呑みにしていました。
けれども、ある日「じゃあ、こういう場合はどうなるの?」と斜めに見る時がありました。
先生は「それは自分で考えなさい。先生はその材料をあなたに教えました」とおっしゃいました。
大人とはこうあるべきなんでしょうね。
子供らに、型を見せて教え、素材を与えて、あとは自主性に任せる。
型や枠がないまま世間に放り出されると、むちゃな人間しかできない。
挫折を味わうだけで、なにも達成感がない。
先人は、後進の者に「背中」を見せなけばならない。

山本五十六の言葉を引きましょう。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ」

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?