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八月は戦争と向き合う機会

夏の全国高校野球選手権大会が二年ぶりに開幕を迎えた。
大会会長で朝日新聞社社長の中村史郎氏が開会式あいさつで、過去に本大会が二度の中止に追い込まれたことに言及、一つは、米騒動、もう一つは太平洋戦争だったと述べた。
そして昨年の新型コロナウィルス蔓延による中止で三度目となってしまった。

それは仕方がない。

ところで、中村氏は「八月は戦争と向き合う機会」だとも述べた。
ヒロシマ・ナガサキ原爆忌と終戦記念日がこの八月に集中しているからある。
そして現在もなお、被爆による後遺症で苦しむ人々がいて、また世界に目を向ければ、絶えず紛争が起こり、幼い命が不条理に失われる現実がある。
そういうこともすべて含んで、自国のことのみならず、戦争と向き合う今月に、思いをいたしたいという示唆を中村氏は与えたのだろう。

両原爆忌において、菅首相は、依然、国連の核兵器禁止条約批准に消極的な立場を取り、明言を避けた形だ。
そこまでアメリカにおもねる必要があるのだろうか?
ほかの外交上の協力はあったとしても、ことに核兵器に関しては、唯一の被爆国として、日本は確固たる姿勢を見せても、アメリカは表面上は拒否しないと思う。
彼らだって、日本に二発もの核爆弾を落とした手前、強いことは言えまい。
そんな深謀遠慮は、不要だと私は思うし、日本が、被爆国の立場で、核兵器禁止条約に批准したとて、アメリカは制裁を加える立場にない。
むしろ、核武装をやめられないアメリカにとって、同盟国「日本」の勇断をある意味、必要としているのではないか?
世界の警察を標榜するアメリカは、対ロシア、対中共、対北鮮、対イランにおいて核武装を解除できない理由があるらしいから、その立場を日本も黙認するほかないのだろう。
しかし、日本が非核の立場を前面に押し出すことと、アメリカの立場を認めることは別に考えて良いと私は思う。

かつて日本は、外交努力を怠って、米英と戦火を交えた。
戦争を回避する努力、あるいは、一歩譲って、早期に戦争状態を終結させる努力を怠ったことは否めない。
また、戦争を吹っかけられたからといって、アメリカも、日本国民を巻き込むような大量虐殺をおこなっていいという理由もない。
戦闘は、戦闘員(兵士)の間だけでおこなうのが国際ルールだ。
もちろん、戦争がいったん始まってしまうと、理性は吹っ飛び、虐殺や掠奪、強姦などがいとも簡単に実施されてしまうのである。
戦争が「悪」であるのは、人間性がまったく否定されてしまうからにほかならない。
そのような、止めることができない戦争は、未然に防ぐしかないのである。
ゆえに「核抑止力」という考えが出てくる。
アメリカは二度にわたる核使用で、日本人を「モルモット」にして教訓を得た。
また現在の核保有国も被爆国日本がこれまで発信してきた、被爆者による体験談や写真の提示などで核の恐ろしさを少なからず感じているのは事実であろう。
あの凄惨な経験が、核保有国の為政者に一定の恐怖を与え、はからずも「抑止力」となっているのである。
「持っていても、使えない」核兵器になっている事実は冷静に受け止めねばなるまい。

アメリカが言う「核による安全保障」や「核の傘」に守られる日本など、「条約」以上にその効果を発揮しているのも皮肉なことだ。

私はそれでも「条約」は日本政府として、また日本国民の代表として批准してほしいと願う。
私は、おそらく核兵器は今後も使われることなく、ただの脅しとしてしか機能しないだろうと、いささか楽観的に見ている。
だから「良い」というものではない。
私は、平和を「脅しで」維持するものではないと思っている。
それでは、まだまだ野蛮な心に、人類が打ち勝っていないからだ。
その獣(けもの)のような心を克服するためにも、「脅し」を外交カードとして用いてはならない。
なるほど、外交に、交換条件の提示や、相手の足元をみて「脅し」的手法がとられないとはいえない。
しかし、背後に銃や剣を隠して握手するような外交は、人類は捨て去るべきだ。

基(もとい)、相手があるから自衛のために武装するという考え方は現実的である。
日本国憲法の第九条は、そのことで国民の間で「もめて」いるわけだから。
外交の「相手」が必ずしも友好的ではないかもしれないという危機意識がそうさせるのだが、だからこそ、武力を保有することが「正論」だという意見は根強い。
保守的な考えの人々なら、そう考えるのが自然なのかもしれないが、リベラルな思想の人々でさえ「自由は勝ち取るものだ」と豪語している。
自由の国フランスでは市民革命によって「自由を得た」と国民に認識されていて、国民自身が血を流して自由を守ったという自負がある。
これは共産主義国も同じで、彼らも革命によって、流血の末、共産主義の勝利を得たと信じて疑わない。
いずれにせよ、「勝ち取る」方法論は、必ず負けた方が存在するのであり、これでは戦いの連鎖を断ち切れていないので、そのような方法で得た「自由」なり「権利」はいびつなものだ。

世の中、様々なイデオロギーが存在するが、たいていは「革命」や「抑圧」を肯定している。つまりは「統治」のための流血は必要悪だというのだ。
市民の自律的な国家運営とは程遠く、一握りの権力者が、迷える国民を導くという形をとってしまいがちだ。
これではいつまでたっても、自立した本当の市民は生まれない。
だから武力が必要だという短絡的結果を産むのだろう。

どうしたら核兵器のみならず、通常兵器でさえも必要としない世界が訪れるのだろうか?
そして、同時的に、環境破壊を食い止めつつ「真の幸福」を享受できる日が来るのか?
そういうことに思いをいたす八月であってほしい。

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