論語はよくわからない
意識の高い人が『論語』を解説したり、人生訓になるようなことをお書きになる。
「論語読みの論語知らず」という言葉もあるくらい、日本人は「論語」好きで、そのわりには孔子がどんな人物だったかなどまるで無頓着なのである。
私だってそうだ。中学だったか、高校の漢文の時間でやったくらいである。
で、岩波の『論語』などを紐解いてみると、これがまた、だらだらと続く「問答集」であり、『般若心経』や『歎異抄』のようなものなのである。
現代で言うところの「ケーススタディ集」だと言えなくもない。
このうちの数パーセントが、格言として現在も残っているに過ぎない。
江戸時代には、この論語を暗唱することが学問の基本のような風潮があり、論語をそらんじることが教養だったらしいが、反対に「論語読みの論語知らず」という言葉をも生んでしまった。
『論語』以外に、日本人は『韓非子』とか『荘子』も好きで、故事成語はそれらからも採られている。
私は『孫子』や『南斉書』のほうが「使える」と思うのだが。
『南斉書』にある「三十六計逃げるに如かず」は津波から身を守るときにも使える格言だ。
あるいは儒教の教典たる『礼記』の「大学」編にある「小人閑居(しょうじんかんきょ)して不善を成す」という言葉は、とても現代人にとって含蓄のある言葉だ。
つまらぬ者(小人)は暇を持て余すと、ろくなことをしないという意味で、その反語として君子は暇があっても行いに気を配って善行を考えているものだということだ。
ところで『論語』は儒学の教典なのだろうか?
孔子が儒学の始祖だというから、始祖の生の言葉を記録した『論語』はそうに違いない。普通はそう思う。
でも、読んでいると、さっきも書いたように「ケーススタディ集」に過ぎず、読む者の素養によって、その理解度は左右される。また曲解や拡大解釈も十分にあり得るのである。
福沢諭吉や渋沢栄一は「実学」を旨としたので、『論語』を自らの行動の規範としたようだ。
渋沢が晩年に著した後進への啓発書としての『論語と算盤』は、のちのこの国の実業家に多大な影響を与えたらしい。
この本は私にもよくわかったし、原典を苦労して当たるより、孔子の考え方(というより渋沢の解釈)に近づきやすいと思う。
ちかごろ、ろくな自己啓発書がない出版界において『論語と算盤』は、お勧めである。
とはいえ『論語』はよくわからない部分が多い。
背景がわかればもっと明確になるのだろうが、唐突に弟子との問答が始まるので、読む側の素養が問われるのである。
武者小路実篤が『真理先生(しんりせんせい)』で主人公の「真理先生」に「釈迦の手は血に染まっていないが、孔子の手は血に染まっている」みたいなことを語らせていた。
どういうことなのか、私にはわからないが、想像するに、孔子は聖人君子ではないのだということではなかろうか?
『温故知新』(為政)や『巧言令色』(学而、陽貨)は『論語』の中で私も好きな言葉だ。