巨人の後継者~ブラームス交響曲第1番
お久しぶりです。笠木です。noteサボってました。ごめんなさい。そろそろ今まで取り組んだ作品を見つめ直したくなったので、再開しようかなと思います。
今回は、書こう書こうと思って書けずにかれこれ1年以上経ってしまったブラームス交響曲第1番(以下ブラ1)について綴ろうと思います。毎度ながら個人的な考察なので悪しからず。
着想を得てから完成までに21年もの年月がかかった事、当時の名指揮者であるハンス・フォン・ビューローに「ベートーヴェンの交響曲第10番」と絶賛された事などでよく知られている作品ですが……何を隠そう、僕は大学時代前半ぐらいまではあまり好きな作品ではありませんでした。当時の僕はブラ1に対して、ベートーヴェンのパクり、古典に執着し過ぎている、という印象を持っていました。
しかし、ある日ふとカラヤン指揮ベルリンフィルの音源を見つけ、初めて電車の中でじっくり聴いた時。彼らの劇的、人間的な解釈に深く感銘を受け、それをきっかけにブラ1に対する印象が少しずつ変わっていっていました。
そんな矢先、大学4年生の時、ご縁があって桐朋祭の学生会オケにて、ブラ1を一緒に演奏する事になりました。いつも通り難なく練習や合わせをこなしていくつもりが、その期間に、実際に演奏したり研究したりする事で発見した事が驚くほどたくさんあり、気づけばブラ1の魅力にどっぷりハマっている自分がいました。
ブラームスの作品はそれまでにもいくつかやった事はあったため、彼の作品を弾く時の感覚など───具体的には、技巧的には難しくても、心や体には乗りやすい音の配置である、など───はある程度はわかっていました。ただ、ブラ1を実際にやる前はまだ古典的過ぎる作品だという印象が拭いきれていなかったのもあり、譜読みした時、こんなにブラームスらしいロマンが溢れている曲だったのか!と驚いた記憶があります。
初めて全員で合わせた時の衝撃もまた忘れられません。最初の1音が鳴らされた瞬間の、あのどっしりとしたサウンド、深い深い闇の中に堕ちたような感覚になりました。ベートーヴェンの有名な交響曲第5番と同じテーマ「苦悩から歓喜へ」を取り扱っている事でも知られていますが、ベートーヴェンの殴りかかってくる「苦悩」の描写とは全く違った「苦悩」だなと感じました。
また、ブラームスはシューマンの妻であるクララに特別な感情を抱いていた事でも有名ですが、学生会で共演させて頂いた指揮の反田恭平さんから、ブラ1でも、クララに対する思いが溢れ出ているという事を教わりました。ブラームスの音楽には多く「クララのテーマ」というものがあり、それがこの作品でも繰り返し繰り返し使われていると。一番顕著に現れるのは第4楽章の冒頭から少し進んだところに登場するホルンのメロディです。(写真)
このテーマを部分部分切り取ったりしてこの交響曲が出来上がっている、という事を知りました。確かにスコアを見てみると、曲全体が長い割には要素がとても少なくて、それなのにこんなに緻密に出来上がってて凄いなとは思いましたが、あれって全部クララクララって言ってるのか、と考えると、ブラームスのクララに対する思いは半端じゃないなと感じました。
ところで、なぜこの交響曲を書くのに21年もかかったのか、それはベートーヴェンの存在が大きすぎたからだと、ブラームス自身は述べています。「ベートーヴェンという巨人が背後から行進して来るのを聞くと、とても交響曲を書く気にはならない」「音楽にできる可能な限りはベートーヴェンがやり尽くしてしまった」という彼の発言からも、作曲する上で相当ベートーヴェンを意識していたようです。しかし推敲に推敲を重ね、結果ベートーヴェンと同じテーマを用いてベートーヴェンに対抗するに十分な交響曲が完成されました。前述のように、同じ「苦悩から歓喜へ」というテーマでも、ベートーヴェンの殴りかかってくる「苦悩」に対しブラームスの深い闇に堕ちていく「苦悩」、ベートーヴェンのある種狂喜乱舞とも言える程の「歓喜」に対してブラームスの崇高な拡がりを持った「歓喜」、両者にオリジナリティーがあるように感じます。
ブラームスの言うように、ベートーヴェン以降の作曲家にとって、ベートーヴェンは巨人のような存在です。なぜなら、彼の作品は150?以上ありながら、同じような作品が何一つない、つまり音楽にできる可能な限りをやり尽くしたと言っても過言では無いからです。特に交響曲は、ベートーヴェンには第9という集大成がありますから、それを超えるものを書くのは至難の業かもしれません。
では、ベートーヴェンより後を生きる我々作曲家はどうしたらいいのか。それは、先人たちの残した作品を吸収しながら、自分なりのオリジナリティーを探し出す事だと思います。事実、ブラームスはベートーヴェンを意識しながら、ブラームスらしさを交響曲第1番の時点で存分に出す事に成功しています。あるいはリストのように、ベートーヴェンという存在から一歩引いて全く違った角度から音楽を生み出す、という手も有り得ます。人間1人が見る事のできる範囲はどう頑張っても限られていますから、ベートーヴェンでさえ、見ていないものもあるのではないでしょうか。それを探し出し、自分のものにし、音楽として外に出していく。もちろんそれには先人たちが見たものを吸収するという作業も必要である前提の上ですが。
既存の作品で溢れかえっている現代で作曲において自分なりのオリジナリティーを見つける事はとても難しいです。しかし、自分の心の中にあるものは他の何にも代えられない唯一のものであり、それを外に出す必要があるから作曲家は作曲をするものだと思っています。少なくとも僕はそうです。それゆえ自分にしか持ち得ないオリジナリティーは必ずどこかに潜んでいます。ブラームスは背後から行進してくるベートーヴェンという名の巨人からヒントを得てオリジナリティーを生み出しました。さて僕はどこからオリジナリティーを見つけましょうか……それはまだまだ要研究です。