様々な展示に行き、写真を撮ってもいいのなら撮らせてもらい、感想を文章にしてnoteに晒す。 私が勝手に名乗っている「美術鑑賞家」のお仕事。 お仕事といっても何も金になるものではなく、今のところは単なる自己満足というか情報の発露である。強いて言うなら私の感想を読んで「見に行きたい」と思ってもらえれば幸いくらいの気持ちはある。 「見に行きたい」と思ってもらいたいと言う割には私は事細かに内容を書きすぎだとも思う。写真も堂々と作品を真正面から撮っている。それでは見に行かずとも十分にな
さて、誰にも求められていないのに長文を書こうと思う。内容は特に決めていない。 こういうのは本来、どのような文章を書くのか、ある程度決めておくべきである。そうしないのはいちいち考えるのが面倒くさいし、只々、私の文章を書きたいという欲求を解決させるだけの目的であるためである。 今日何があったという日記でもない。かといって日頃こんな事を考えているといったエッセイ的なことでもない。ならば何だと問われれば長文というほかない。 こんな文章誰が読むのだろう。書いている自分でもわからない。読
読書会の帰りにヴドギラ氏の個展のようなものを鑑賞。 ヴドギラ氏はモヨウ画家である。果たしてモヨウとはなんなのか。模様なら漢字で書けばいいだけの話。しかし氏の描くのはカタカナなのである。 これがなんなのかと聞かれればよくわからい。そもそも画家と言いながら最近はブロックのようなもので立体である。私の思うに氏のモヨウは万能なのだ。 アートの種類には違いない。しかしアートのどのジャンルに属するかと問われればどのジャンルにも属するのである。絵であって絵ではなく、立体であって立体であり、
今年から両親が佐賀の祖父の家に引っ越し、祖父と両親に会いに行ってきた。これが所謂「帰省」となるのだろうが、私が上まれ育った家というわけではないので、お盆の定番行事の「帰省」に当たるのかどうかはわからない。 佐賀の家は西鉄久留米からバスで行ける場所であるので最寄りは久留米である。まあ最近は久留米まで両親に迎えにきてもらうのだが。 両親に会い、祖父の調子を伺い、夕方に帰路に着いた。その帰りに伺ったのが西鉄久留米駅の近くで開催されていた銀ソーダさんの個展である。 銀ソーダさんの最近
昨日、みぞえ画廊にて「追悼 野見山暁治展」を鑑賞。 さまざまな時代の、さまざまな大きさの作品が並ぶ。その一つ一つから溢れ出るエネルギーは圧倒的で、どの作品もエネルギーに見合ってないように思われた。 おそらく、どれだけ大きな作品を描かれたところでエネルギーはそのサイズに見合わず、溢れ出るのだろう。作者が不在となった今、未だに発散し続けるエネルギー。 これが美術なのだ。これが作品を残すということなのだ。これが芸術家の一生というものなのだ。 そういったことを作品たちから嫌というほど
衝動的であった。 「見に行きたい時が作品を最高によく見れる日」とは誰の言葉だったか覚えていない。 覚えていないのも当然であって、つまりは今思いついた私の言葉である。 しかしながらこれは間違っていないだろう。 博多駅近くのカフェで午前中からお昼にかけて参加した読書会を終え、私はそのまま電車に乗り、赤間駅に降り立ったのである。 目的はgallery wabiで開催されている銀ソーダさんの個展「space-わたしがつくる境界線」を見るためである。 ほぼ勢いであった。タイミングという
今日はそもそも心療内科の日であったので、仕事は半分有休をもらうつもりだったのだが、別件で用事が入ったのでそれも今日都合をつけてもらい、一日中何らかの用事であった。 さらにも増して昨日3年ほど使っていた自転車が冥土へと旅立ち、新たな相棒も買わねばならぬ。何とも出費の嵩む、それでいてウキウキな日だったのである。 そのテンションは家を出る時から始まり、「まだ出かけるには早いが何、歩いていって天神あたりで珈琲でも飲みながら本でも読んどきゃいいではないか」と思い、早くから家を出たほどで
「例えるならば、我々は山を登っているのだろう」 今日同じ芸術に携わる友人と話していた時にふと出てきた言葉である。 人生生きていく上でどんなことにも当てはまる言葉かとは思うが、我々のようなものづくりの業界ではとても強く意識せざるをえない言葉ではなかろうか。 「でも頂上ってないよね」 そんな強く意識する言葉の次に出てきた言葉がこれである。見えないとかではない。「ない」のだ。何故ならば登っている山そのものが自らが作った山だからである。 だから自分で「頂上」を決めなければならないのだ
先日art space tetraにて「鳴島充人 四宮スズカ 二人展 Sen:Lei」を鑑賞した。 鳴島さんの作品は何度か拝見している。はじめて拝見したのは何年前だろうか。たしか警固あたりのギャラリーのグループ展だったような覚えがある。 その頃から鳴島さんの作品の印象はほぼ変わらない。この変わらないという私の感想が良いことなのか、悪いことなのかはわからない。作家にとって「変化」というのは避けようのないことでもあり、むしろそれを望んである方もおられるだろう。 鳴島さんの作品に
最近メンタルが不調というか、不安定で例えるならば安心と不安が仲良く手を繋いで私の後ろを歩いているというか、これは明らかに良くない状態で、結果何が起きているかというと何時に寝ても朝目が覚めるのが5時前後である。今日は4時半くらいに目が覚めてなんとかまた目を瞑って寝ようとしても5時半が限界であった。 そうして私の心はムズムズしだして家にはいられなくなる。家にいたら不安が増す気がするので今日は外に出ることにした。博多駅まで出て中洲へ向かい、天神に出る。朝の長距離散歩である。 家で悶
うきは市にある「gallery &cafe空のいろ」に伺い、本日まで開催されていた銀ソーダさんの個展「jewelry box」を拝見した。 もう何度も見ている銀ソーダさんの作品であるが、何度見ても、どこで見ても感動する。私はつくづく銀ソーダさんの作品に惚れ込んでいるのだろう。そして同時に芯から美術というジャンルが好きなのだと銀ソーダさんの作品を見て思うのである。 それは何故だろうかと考えてみると、理由の一つが銀ソーダさんの作品の絵の具の使い方があるだろう。例えば私の作品はキャ
今私は福岡市東区箱崎にある大學湯にいる。 銀ソーダさんの個展「記憶の海」の鑑賞である。 今まで何度となくいろんな作家の皆様の鑑賞日記を書かせていただいたが、今、会場にいる状態で書くのは初である。 大學湯自体は何度となくオープンハウスなどのイベントで行っている。いつもはのんびりとした空間で今でこそ銭湯としての機能は失われているが、コミュニティスペースとしてほっこりとした気分にさせてくれる。何時間でもいたくなる。 それが今、この個展という会場と化した大學湯は銀ソーダさんのインスタ
現在アートエリアasi-paraにて行われている夢夢さんの個展「百花斉放」に伺ったのはちょっと前になる。 平日のゆったりした時間だった。可愛い作品に囲まれて、ゆったりとした時間を過ごした。 夢夢さんとは活動し始めた頃合いも一緒で知り合った時間も一緒で、ジャンルこそ違えどもいわば同志のような、そんな間柄である。その画風は知り合ってから以降、一貫して可愛らしい女性を描いている。 変化といえば今までは線が主役といったような輪郭に重きを置いたいたような節があるのに対し、最近は水彩の鮮
うきは市に移転したgallery &cafe空のいろさんに初めて伺った。MIRAIさんの個展「レモン・パーティー」を拝見した。 福岡市からだとちょっとした旅行である。JRの博多駅から結構な距離だったが、本を読みながら、時折外の風景に目をやりながら、乗り換えのタイミングでうどんをすすりつつ、楽しく移動した。 生まれ変わった「空のいろ」は可愛らしい佇まいで暖かな空気に満ちていた。その一角にMIRAIさんの作品。大きい作品から小さな作品まで。 初めてMIRAIさんの作品を見たのは5
今月頭の事をようやく書くことをお許し願いたい。 パステル作家masaさんのメモリアル展がアートエリアasi-paraにて開催された。 この記録を書くにあたってなかなか悩んだ。せっかくならしんみりとした気持ちで書きたくはない。そんなふうに書こうものならきっとmasaさんが悲しむ。 それには頭の中である程度熟成が必要だと思い、今鑑賞日記を書く。こうして書くと言い訳だ。重ね重ね申し訳ない。 まずこのメモリアル展にどういった心持ちで伺ったか、それはもう覚悟も何もなかった。勢いで行った
最近美野島にできたアートスペース。「OVERGROUND」に行ってきました。 とにかく広い!のびのびと広い! 人の想像力とは空間の広さに比例するのではないかと感じた。今までに無い感覚を感じた。 頭蓋骨というか、脳内が膨張する。私の想像が、ドッグランを駆ける犬のように走り回る。そして展示されている作品も空間の中を走り回っているようだ。 全てがのびのびとしている。 どこまでが展示空間か、どこからがバックヤードか、何が作品で何が丁度品かもあやふやになる。なので全てがアート作品に感じ