見出し画像

出雲口伝と秘密結社(5)

聖方位

聖方位という用語は、『シリウスの都 飛鳥』(栗本慎一朗著)の中で使われて、はじめて知った用語です。
首長のものと思われる大規模な前方後円墳が、真北から西に20°ずれた方角で作られる。ゾロアスター教神殿や、ペルセポリスの神殿が聖方位で作られている。飛鳥寺から法起寺に向かう太子道が、聖方位を向いているなど、飛鳥時代(聖徳太子)に関係するものに、聖方位がちりばめられている、というものだったと認識しています。
ただ、正確に20°傾くかというと、いろいろなパターンがあって、15°から25°くらいのひらきがあったり、真北から東に20°前後ズレるパターンもあるとしています。
そういう意味で、出雲口伝で伝える聖徳太子の御子の日置王が建てた日御崎神社の日沈宮(下の宮)の本殿が、どの方角を向いているかを調べてみました。
日沉宮は、近くの海(清江の浜)の日置島(経島(ふみしま))に鎮座していたものを村上天皇の勅により、天暦2年(948)に現在地に遷したといわれているようです。出雲口伝は、そのことに触れてなく、日置王が建てた日沈宮として、現在の日御崎神社の日沈宮の写真を『上宮太子と法隆寺』に載せています。
現在の日御崎神社の日沈宮(下の宮)の本殿は、経島神社の方向を向いています。

三輪山の太陽信仰が日の出を尊重するのに対し、日奉部の太陽信仰は、夕日を尊重すると言われる。

『上宮太子と法隆寺』(斎木雲州著)

日沈宮の説明を、斎木雲州氏は上記のように説明しています。

『日置・壬生吉志と氷川神社 -古代の方位信仰を手がかりとして-』(木本雅康著、歴史地理学)によれば、「出雲大社から見て、西北西30°の方位(夏至の日没の方位)に、中世、日沈宮とも称された日御崎神社が祀られている・・・このラインを東南東に延長すると、木次町日登付近に到達することに気が付いた。すなわち、冬至の日の出の方位に当たる。」と述べています。
なるほど、栗本慎一朗氏が夏至線(夏至の日没と冬至の日出を結ぶ線)と呼ぶ上に、日沈宮-出雲大社-日登が並ぶということで、非常におもしろいと思った次第です。

ただ、確認のためステラナビゲーターというPC上の天体ソフトで、西暦622年の日沈宮の夏至と冬至の日出・日没を調べると、以下のようになりました。(真東、真西からの角度を記します)

  • 夏至(6/20)の日出 東北東30.252° 日没 西北西30.251°

  • 冬至(12/19)の日出 東南東28.645° 日没 西南西28.644°

夏至の日没の方向の30°は正しいと思いますが、冬至の日の出は、1°以上ズレた結果となっています。ただ、日登地区では広すぎて、具体的な建造物がわからないと、判断できないということになります。

そこで、ふと思ったのが、
出雲大社から日沈宮に向かう線を、そのまま、ずっと、ずっと延ばしていくと、どこに行くのだろうか?
日本の大規模古墳などの聖方位というのは、単に、渡来人の故地を指しているのではないだろうか?
ということです。

出雲大社の銅鳥居

出雲大社の起点をどこにするか、迷いました。
そこで、選んだのが、毛利綱広が1666年に建てた銅鳥居
「1000+666年」というのと、青銅でできた鳥居であるからです。
『出雲と蘇我王国』(斎木雲州著)の中では、次のように記しています。

時代は少し戻るが、1591(天正19)年に、秀吉は朝鮮出兵を、各大名に命じた。
毛利家は大社関係者に、兵役を要求した。大社は断った。すると毛利家は、軍費捻出のためとして、大社領を取り上げた。
・・・
朝鮮の役終了後、大社は領地の返還を求めたが、毛利家は応じなかった。
その代わりに75年後に、毛利綱広は大社に、銅の鳥居を寄進することになった。
・・・
当時神社では、仏像を御神体としていた。武士や村人数10人も加わり、仏像を社殿から取り除いた。
・・・
1664(寛文4)年には、神宮寺と大日堂は取り払われた。この年が大社念願の、神仏分離の年となった。

『出雲と蘇我王国』(斎木雲州著)

ここで、(聖徳太子が普及させたという)仏教と神道が習合していたものが、全国で初めて神仏分離を行ったということになります。
明治政府の「神仏分離令」が、出雲大社の念願に始まっていたことが、うかがえます。

高麗(高句麗)の首都~平壌~

出雲大社の銅鳥居と日沈宮を結ぶ線を伸ばしていくと、最初に出会う大きな都市は、平壌となります。(見出し図参照)
平壌といえば、高麗(高句麗)の首都です。

(左)高麗王(玄武若光)の家紋 (右)出雲大社の神紋

666年に高句麗から来倭した剣花菱の家紋を持つ高麗王(玄武若光)。
聖徳太子の御子の日置王(日置=比企とすると、剣花菱の家紋を持つ比企氏)の建てた日沈宮。
1666年に建てられた剣花菱の神紋を持つ出雲大社の銅鳥居。

出雲大社の銅鳥居から夏至の日に、太陽を追って飛び立った鳥は、どこまで飛んでいくのでしょうか?

ミヌシンスク

出雲大社の銅鳥居と日沈宮を結ぶ線をさらに伸ばしていくと、ウランバートルの近くを通り、ミヌシンスクに達します。
出雲口伝で、ミヌシンスクとウランバートルというと、『草原の記』(司馬遼太郎著)が、もっとも関係していると思います。
もともと、出雲口伝が公にされるのは、産経新聞社に勤務する富当雄氏が、同僚の司馬遼太郎氏が書いた『歴史の中の日本』生きている出雲王朝の節の中で、W氏として登場することに始まっています。
司馬遼太郎氏は、生きている出雲王朝の中で、最初は西村真次博士の『大和時代』を参照し、

西村博士の説のように、出雲民族は、ツングースであったのかもしれない

生きている出雲王朝『歴史の中の日本』(司馬遼太郎著)

と控え目に語っていたのが、

私は、学生時代、蒙古語(わわぬこ注:モンゴル語)をまなんだ。蒙古語というのは、日本人ならば、東北人が鹿児島弁を習得するほどの努力で学べる。コトバの構造が、日本語とほとんど変わりがなく、単語さえおぼえればほぼ用が足りるからである。蒙古語もツングース語も、同じウラル・アルタイ語族に属している

生きている出雲王朝『歴史の中の日本』(司馬遼太郎著)

と述べたあと、オロチョンの話が続きます。

こんにち、満州の興安山脈の山中にあって狩猟生活を営むオロチョンという少数民族もまたツングースの一派である。前記W氏をはじめ、出雲の郷土史家たちは、八岐大蛇伝説のオロチは、オロチョンであるという説をもっている。
・・・
中国山脈にはいまも昔も砂鉄が多いが、出雲王朝が、有史以前においてナカツクニを支配しえた力は、鉄器にあった。古語にいう細矛千足国とはそこから出た。細矛千足国の鉄器文明はオロチョンがもちこんだというのである。
・・・

生きている出雲王朝『歴史の中の日本』(司馬遼太郎著)

そして、

ツングース人種である出雲民族は、鉄器文明を背景として出雲に強大な帝国をたて、トヨアシハラノナカツクニを制覇した。

生きている出雲王朝『歴史の中の日本』(司馬遼太郎著)

と語り、出雲族がツングース人種であったと断言するにいたっています。

noteの739番 田中さんが、『草原の記』を読んだ感想として、「モンゴル高原にあるウラル山、そこに連なるアルタイ山、ここから発祥したウラルアルタイ語族に日本人のルーツを見出している。」と記しています。
ただ、あわぬこの思ったことは、少し違っていて、
ミヌシンスク盆地(シベリアの暖炉)に、出雲族のルーツを見出している。
というものです。

モンゴル高原に匈奴帝国が出現するのは、紀元前四世紀末である。すでにかれらは青銅器を所有していた。べつにおどろくべきことではなかった。
・・・
紀元前1500~同1200年という古代に、青銅冶金が普及し、牧畜だけでなく、文明の基盤ともいわれる農業もおこなわれていた。
匈奴の出現は、そのシベリア文明時代の末期にあたるから、かれらが精巧な青銅器をもっていたことは、ふしぎではなかった。
・・・
私は、この盆地の金属文化こそ、モンゴル高原における匈奴を成立させたとおもっている。遺跡は匈奴の最盛期と一致し、紀元前七世紀から同三世紀のものらしく、どうやら匈奴の後方基地のようであった。

シベリアの暖炉『草原の記』(司馬遼太郎著)

夏至の日に、出雲大社の青銅の鳥居から飛び立った鳥は、青銅文化の栄えたミヌシンスク盆地に帰っていきました。

ハカシア略年表によれば、カラスク文化(紀元前3千年紀末から1千年紀初め)が、次のような特徴を持っています。

  • 青銅器の繁栄。高い鋳造技術。担い手はモンゴロイド系

  • 方形のクルガン。主なクルガンに付属した小さな土盛りクルガンも多い。多くは、クルガン中央に1つの墓。肉の副葬品の他、玉の首飾り、銅の輪、貝、くつわ、幌馬車などが発見。

出雲からは、大量の銅鐸と銅剣が発見されています。
銅鐸は青銅器です。出雲で発見された銅剣の形は、カラスク式青銅短剣の形に近いものです。

出雲族の古墳は、方形であることを出雲伝承本(大元出版)では伝えています。
また、玉造も特徴としています。
日本の古墳でも、馬鐸が発見されますが、銅鐸とそっくりです。

一方、タシュティック文化(紀元後1世紀から5世紀)をみると、

  • チュルク語系民族キルギスがハカシア盆地(=ミヌシンスク盆地)に広まる

としています。これが、蘇我氏(聖徳太子)につながる、突厥のチュルク系民族の元だと思われます。

都落ちをした太子の御子・日奉王(注)は、西出雲の神門郡の郷家に着いた。旧西出雲の子孫・郷土本家が出迎え、熱烈な歓迎の宴が催された。

『上宮太子と法隆寺』(斎木雲州著)
(注)日奉王は、後に日置王と改められます。

「何故、西出雲王家が熱烈に日置王を出迎えたのか?」と、ずっと思っていたのですが、それは、出雲族の故地ミヌシンスク盆地の後継の担い手だったから、というのが、あわぬこの結論です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?