脳とワンネスと日本語の秘密
ペンキ画家のショーゲン(SHOGEN)さんが、『今日、誰のために生きる?』(SHOGEN著)の中で、ブンジュ村の村長から言われた言葉として、次のように語っています。
最初の行は、「いま、ここ」を喜びと祝福で生きていたのが縄文人。
最後の行は、自然を、動物・植物・微生物といった、あらゆる生命ととらえると、生きとし生けるものとの一体感(ワンネス)ということでしょうか。
ジル・ボルト・テイラーさんは、『奇跡の脳』の中で、左脳に障害をおい、ワンネスを体験したことを、次のように語っています。
そして、瞑想や祈りの最中に脳のどの領域が反応するかを調べたアンドリュー・ニューバーグとダキリ両博士による研究結果をもとにして、この状況を次のように分析しています。
方向定位連合野は、「からだの境界、空間と時間」に関する機能を担っています。
左脳の言語中枢の機能停止 ->
「脳のおしゃべり(=ネドじゅんさんの自動思考)」の停止
左脳の方向定位連合野の機能停止 ->
からだの境界を認識できない=ワンネス体験
時間を認識できない=過去の記憶、未来の夢の消失
ということでしょうか。
方向定位連合野について、先の研究者たちは次のように述べています。
左脳の方向定位連合野の働きを見ていると、自動思考で出てくる未来や過去のことをグルグル思い悩むことや、自他を区別し、物事を判断し、善悪をつけたがる自己中心的な性格となる根源と思えてきます。
瞑想によって、この左脳の方向定位連合野の機能を低下させることで、ワンネスに至るというのも、なるほどと思えてきます。
一方、右脳の方向定位連合野については、ほとんど誰も気にもかけていないのですが、ここに日本語の秘密が隠されていることに気づきました。
右脳の方向定位連合野は、「空間」に関わっている。
左脳の方向定位連合野は、「自己(人間)」に関わっている。
話を『奇跡の書』に戻すと、ジル・ボルト・テイラーさんは、深い安らぎを見つけることについて、以下のように述べています。
ジル・ボルト・テイラーさんも「いま、ここ」で、右脳回帰すると語っています。
そして、唐突に左脳の「する」機能と右脳の「ある」機能の話が出てくるのです。
西洋社会: 左脳「する」機能 > 右脳「ある」機能
日本語の謎
『日本語文法の謎を解く ~「ある」日本語と「する」英語』(金谷武洋著)という書籍があります。副題にもあるとおり
日本社会: 右脳「ある」機能 > 左脳「する」機能
ということが予想されるわけです。
この副題のタイトルは、第4章のタイトルでもあるのですが、第3章のタイトルが何かというと、「日本語と英語の空間/人間」となっています。
そうなんです。
右脳の方向定位連合野 - 空間 - 日本語 - 「ある」機能(日本社会)
左脳の方向定位連合野 - 人間 - 英語 - 「する」機能(西洋社会)
言葉の文法(=左脳の言語野)が、方向定位連合野と密接に関連しているのです。
筆者の金谷氏は、基本文(組み立ての最も簡単な文)が、日本文では3つ、英語では5つある、と述べています。日本文は「ある」という動詞が支え、主語がありません。一方、英語では、主語と動詞「する」が必ずあり、人称代名詞(I,You,himなど)と所有形容詞(my,your,hisなど)が頻繁に出てきます。
ここで「あわぬこ」の思ったことです。この2つは、同じ比較ではないです。同じ比較をすると、次のようになるのでしょうか。
日本だと恋人に愛をささやく状況かと思われるのですが、日本人の「私」と「あなた」の二人がいて、「好きだ」と男性が女性に告白しているのでしょう。
言葉では、「好きだ」と言っても、「私」と「あなた」の間では、右脳の方向定位連合野で感じている空間を共有しているため、「好きだ」と言われた人にも、「好きだ」という基本文だけで話が通じるわけです。
日本語を話している日本人の脳の中では、右脳の方向定位連合野が活性化しているのに対し、左脳の方向定位連合野は働いていないように思われます。
一方、「する言語」の英語は、現代日本語で無理やり置き換えると「私は、あなたを愛する」となります。ここで、「わたし」と「あなた」の二人が出てきます。
月本洋氏は、『日本人の脳に主語はいらない』の中で、次のように述べています。
英語を母国語として話し、英語で思考している人は、いったい、生まれてから死ぬまでに、どれだけ「わたし(自己)」を意識するのでしょうか?
そういう疑問が、フツフツと湧いてきます。
月本氏によれば、
と、語っています。そうすると、生まれてから、1年半あたりから、左脳の方向定位連合野で、「自己(わたし)の身体的な境界が区別できる」、ジル・ボルト・テイラーさんの言葉をかりると、「自分のからだと他のものとの区別がつけられる」ようになる、ということでしょうか。
ここまで考えた時、古史古伝として『トマスによる福音書』を読んでいる身としては、イエス・キリストの次の言葉が浮かんできます。
新約聖書の福音書にも、似たような記述があるのですが、そこでは、「幼な子」と書かれています。新約聖書では、他の箇所で乳飲み子という用語も出てきます。自己の身体的区別ができる生後一年半未満の(トマスによる福音書にみられる)乳飲み子が正しいと思います。
「二つのもの一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにする」とは、ジル・ボルト・テイラーさんのワンネス体験で流体になった状態かと思われます。乳飲み子の感覚。
「男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にする」とは、情欲を抱かない状態。乳飲み子の感覚。
「あなたがたが、・・・ときに、」の部分は、解釈がむずかしいので、省略しました。おそらく、カルマの法則を語っている気がします。
そんなことを、ツラツラと思った次第です。
日本語の「ある文」と「する文」の優劣
日本語の中で、「ある文」(存在文)と「する文」(行為文)の優劣は、どうなのでしょうか?
金谷氏は、従来の尊敬語を「主体尊敬」、謙譲語を「客体尊敬」と呼んでいます。
例えば、「言う」の場合
主体尊敬:「おっしゃる」=「ossh-ARU」で、-ARUで終わっている
客体尊敬:「申す」=「す」または「する」で終わっている
かくして、日本語では、「ある文」>「する文」となり、
日本社会: 右脳「ある」機能 > 左脳「する」機能
ということが、証明できたことになります。
空間(日本語)と人間(英語)
日本語の指示代名詞「こそあど語」について、金谷氏は、次のように述べています。
格助詞の「てにをは」は、空間使用の様式をきめ細かに区別しているとしています。
例)
日本語:「私の前を(通った)/ 私の前に(いる)/ 私の前で(食べた)」
英語: 全て「before me / in front of me」
また、空間名詞の「こそあど」が人間を表している例として、殿様が家臣を「そち」、家臣が妻を「そなた」、妻が夫を「あなた」、「彼(かれ)」は「あれ」の古形と語っています。
空間名詞の「殿」「正室」「側室」も人間を表し、「上(うえ)さま」「御台(みだい)様」「ご簾中」「御前(ごぜん)様」など、高貴な方は、場所でその存在を暗示すると続きます。
まとめ
日本語は究極の右脳言語だったということでしょうか。
主語のない日本語を語ることで、日本人は「わたし」の存在しないワンネスの世界で生きていたように思えます。
ブンジュ村の村長が語るように、自然の一部というと、自然と切り離されている感覚があります。
少なくとも明治維新前の日本人は、自然そのものだった。ちゃんとした日本食を食べ、ちゃんとした日本語で話し考えれば、もう一度、自然に戻れる、そんな気がしました。