宇佐の口伝(その1)
宇佐国造池守公嫡孫五十七世の宇佐公康氏による『古伝が語る古代史-宇佐家伝承』(水耳社)、『続 古伝が語る古代史-宇佐家伝承』(水耳社)を図書館でお借りしてきました。
返済期限があるため、備忘録として書き残すものです。
古の兎狭国の神都(宇佐国造家の伝承)
稲羽の白兎
因幡国は、隣国の伯耆国とともに、古くから、出雲族が統治していた。
その統治下に兎狭族や和邇族が生活していた。
和邇族はその祖神をワニ神とし、兎狭族はウサ神(=ウサギ神)を氏神として祀っていた。
兎族
「稲葉の素兎」とは、兎狭族の族長をさしている。
兎狭族の天職とするアマツコヨミ(天津暦)すなわち、月の満ち欠けや、昼夜の別を目安として、月日を数えたりするツキヨミ(月読)やヒジリ(日知・聖)、または、天候や季節のうつり変わりを定めるコヨミ(暦)によって、満月面の模様がウサギに見立てられることから、月をウサギ神として崇拝し、そのツキヨミの天職をもって、兎狭族と称するようになった。
兎狭族の神はウサ神、すなわち、月神である。
隠岐諸島に、兎狭族は石器時代から住みついて、自給自足体制による農漁業をいとなんでいた。
(あわぬこの注:筆者の宇佐公康氏は、早期縄文時代から日本に住む先住民族と主張しています。時代とともに、吉備の高島、隠岐諸島、越国や関東の総国(ふさのくに)、四国の栗国、東国半島の木国(きのくに)などに移動し定着していった。)
和邇族
和邇族は、後期旧石器時代に、朝鮮半島から日本列島に渡来した種族。
古代の漁労や開運を業とした部族は、海部または海氏と呼ばれたが、和邇族はそのもっとも古い祖先
その祖神はワニ神という海神で水の神である。
孝昭天皇は和邇族の族長である。
孝昭天皇のころ和邇族は、すでに大和地方に進出して、部族によるムラ(村)から、氏族によるクニ(国)を作り、大集落を形成して、共同体による集団生活をした。
(あわぬこの注:筆者は神武天皇の即位を紀元前660年とみなし、和邇族の大和進出を紀元前400年代としています。ホツマツタヱから算出した「あわぬこ説」では、西暦20-61年が孝昭天皇の在位期間となります。)和邇族は、天理市櫟本町にある和邇という名の地を本拠とし、山城・近江・尾張へと進出した古代の豪族。
東大寺山古墳群は、和邇一族の墓地
和邇下神社の祭神は、出雲系の親子三神であるが、それは後世のこじつけ話で、もともとは和邇氏の祖神を祀った。
朝鮮系の海洋民族であった和邇族は、春日山系の山麓や奈良盆地を本拠に、畿内一円から東海地方にまで勢力を張りめぐらし、村々を統合して大和国を作った。
「ヤマト」は、春日山の麓ということから起こった呼び名。カスガ(春日)・アスカ(飛鳥)は朝鮮語に語源があり、ナラ(奈良)は朝鮮語で「クニ」という意味。
和邇族の祖神は、ワニ神と称する朝鮮系の海神。
和邇は、山陰・北陸地方に沢山とれるワニザメのことで、サメの一種を古くからワニと呼んでいる。日本海に面して栄える
-> 壱岐・対馬から山陰地方に進出し、中国系の出雲族に接触し、その勢力下に入る
-> 近畿・東海地方に進出
(孝昭天皇の頃以後)
春日より木津川沿岸に発展
-> 琵琶湖の周辺に勢力を広げる
-> 北進して越前の敦賀または若狭の地で、日本海に出て繁栄
大和川を利用して河内国若江郡に発展し、古代の難波の海を制して栄えた
伊勢から伊勢湾を海路によって東海地方へ進む
-> 濃尾平野を流れる揖斐川・長良川・木曽川・庄内川などの下流地域に勢力を伸ばす
-> 和邇族勢力圏の尾張と称して一族の尾張氏が居住和邇族の戦いは、ほとんど、海岸や河口の水辺でおこなわれた。
それは、新しい土地を求めて進出する上陸戦闘(ワニ舟に分乗し、海岸に着くと武器を振りかざして上陸し、野獣や先住民を征服して土地を開拓)水稲稲作による生活大革命で、和邇一族は、漁労・採集の生活を農耕生活に転換させていった。
ワニ神は農具や武器を守護する神とされ、サヒモチ(佐比持)の神とよばれるようになった。
サヒとは「鍬」や神聖な武器の意味で「楯」「矛」「刀」サヒモチの神は、村や国の堺の坂に、サカガミ(坂神)として祀られた。
和邇族は未開地へ進出する出陣に際しては、和邇坂にイワイベ(忌瓮)掘りすえて祀った。イワイベとは、神に奉献する御酒(みき)を盛る清浄な土器のことで、底を地に埋めて並べた。大和を中心にして、近畿東海地方に多くの同族・分家を展開した和邇族には、約16の氏族がいた。
大和では、和邇(本家)、春日、小野、柿本、櫟本、大阪の諸氏
柿本人麻呂も、和邇氏から分かれた家系孝昭天皇-孝安天皇-孝霊天皇-孝元天皇は、和邇族の族長
綏靖-安寧-懿徳の三代は物部氏の首長
神武天皇は、二世紀の中頃に実在したと、宇佐家の伝承は伝える
稲葉の素兎
白ウサギが、ワニザメに皮をはがれて、赤裸になったという伝説は、経済上の取引で、兎狭族が和邇族に、玄人くさい駆引を使って失敗し、和邇族から資産を押えられ、全部没収されて、赤裸になってしまったことを物語る
淤岐島は、隠岐諸島。旧国名は隠岐国。山陰道八ヵ国の一つで、古代から「どうぜん」「どうご」と呼ばれた群島
石器・縄文時代から、本土との交流があり、また朝鮮半島との交通上の要地として、文化交流が行われていた。隠岐諸島に、兎狭族は石器時代から住みつき、自給自足体制による農漁業を営んでいた。生活の90%は、アマ(海士)による漁労・採取。
「兎狭族はウサ神、すなわち、ツキヨミノミコト(月読尊)を、アマ(天)の神とするアマ(海)族である」という伝承が残っている。オオクニヌシノミコトの多くの異母兄弟ヤソカミ(八十神)の一人が、「兎狭族は、もともと、漁労・採取に依存して生活していたのであるから、いったん、和邇族から没収された物品貨幣を、ひとまず、借り受けたようにして、これを元手にして生業をつづけ、あとで歩合をつけて返済すればよい」と教えた。
その通りにすると、歩合をかせぐのがやっとのことで、元手の返済はおろか、負債はふえるばかりで、生活はますます苦しくなった。オオクニヌシノミコトは、事情や経過を聞くと、かわいそうに思い、「今すぐに、手持ちの物品貨幣をぜんぶ和邇族に返してしまえ。とにかく、歩合がかさまないうちに、それこそ、あるだけの物を集めて、できるだけ早く返済し、丸裸になって、一応きれいな身分になってしまえ。そして、兎狭族の天職にふさわしい新しい土地を、本土に求めて自給自足の体制を整え、再起の道を講ぜよ」と教えた。
兎狭族は、この教示を実行に移し、隠岐諸島の領有権はもとより、物品貨幣の全財産の所有権を和邇族に委譲して、長年住みなれた島を去った。そして、オオクニヌシノミコトが、兎狭族に無償で与えた因幡国八上の地に移住し、この地を開拓して定住し、のちに、ここを根拠地として、山陽・北九州・東九州地方にまで発展し、古の兎狭国をつくって繁栄するに至った。