「たねくん、大木になる」改めてのあとがき
今となっては、おぼろげであいまいで頼りのない記憶でしかないものを思い起こしながら「あとがき」として書きとめたいと思います。
数年前、心の中のモヤモヤと向き合うため、瞑想と呼吸の先生の個人セッションを予約していました。週末の午前中の時間だったと思います。
私は、家族、特に父親との折り合いが悪く、ずっと、どす黒いものを抱えていました。
(正確には今現在もなので、常にどす黒いものを抱えています(笑)。)
当時は、そのどす黒いものの中にどっぷりと浸ったまま、そのものの中で、そのものを感じ続けているというような状態でした。
一歩引いて見るとか、手放してみるとかできなくて、ギュッと握りしめて歯を食いしばっていました。
個人セッション予約日の数日前から、このどす黒い感情をどこからどのように開放していけばいいのか思いあぐねました。
というのも、私のどす黒いものは、大きくて黒くて丸くてツルツルしていて、タピオカのようなものです。引っかかりがない取っかかりがない、きっかけが見つけられず悩みました。
ある朝、夢を見ました。
物語の中に書いた通りの大木の夢です。
“しっかりと大地に根をはり、木の幹が太く枝葉が立派に生い茂っている一本の大木の夢。
大木の根本は凸凹にうねっている。
緑の葉っぱは青々と茂り、赤い実や黄色い実をつけ、キラキラと輝いている。”
幸福と安心を感じながら、夢の余韻に浸りました。
それから、大木の根本の隆起が頼もしく見えて、私を護ってくれるような力強さと優しさを感じたのでした。
横になり窪みに身をゆだねてたら、どんなに安心だろう心癒されるだろうと感じました。
私の心の中に、立派な大木がある。それはとても素敵なこと。なんだか、ワクワクしました。
雨宿りするように、木陰で涼むように、寒さを凌ぐように、身を寄せるところが心の中にあるということが救いでした。
その大木を私の心に認めてから、現実のイヤなこと、私にとっては父との関係を、無理くりどうにかしなければならない、と思わなくてもいいと思えたのです。
目の前の現実から目を背けること、逃げること、隠れることなのかもしれませんが、それでいいと思いました。
身も心も心の中の大木に寄り添う。
その時の私には、それが最善最良のことだったのです。
個人セッションの日、先生には、今書いたようなことを清々しい気持ちでお伝えしたように記憶しています。
先生からは、何を言われたのかは忘れてしまいましたが、一つ覚えていることは、「まぁーぶりんぬさんは編み物をするのですから、心の中に見た大木を編んでみてはどうですか」という勧めでした。
意表を突く提案でした。
心の中で見たイメージが曖昧すぎて、カタチにするというのは不可能と思うのと同時に、いつものように、「どうせ無理に決まっている」「できっこない」といの一番に出てきて、この時も即刻「つくらない」選択をしました。
当たり前のように、私の中にいて無意識に出てくるもの、「どうせ無理に決まっている」「できっこない」は私の思い癖の一つです。
これらの思い癖は、私の中の「たね」の発芽に大きな影響をもたらしました。
この個人セッションから数年後、別の先生から個人セッションを受けた時のことです。
先生の誘導で、深く深く私の中に入っていきました。潜っていく、落ちていくという感じでした。
たどり着いた先は地底でした。そして、私は、自分がたねであることに気がつきました。
真っ暗で何もない、塞がれた世界にたねとして存在していました。
その時、思い出したのです。数年前に心の中で見た大木のことを。たねである私は、ずっとずっと大木になりたいと夢見ていたことを。
たねである私は、大木になりたいと願いながら、なれっこないに決まっている、無理に決まっていると自分自身に言い聞かせ、呪いをかけていました。
だから、たねである私は、発芽することなく時間空間次元を超えて、果てしない時間そこに留まっていたのです。
時間をおいて、別々に大木とたねの画像を見せられましたが、すべては、私の中でつながっていたのです。
夏の夜空を見上げ、星の点つなぎをして一つの星座が現れたような、密やかな感動でした。
そしてまた数年後、星の点つなぎを、今度は文字面にしたいと思い、一編の物語をしたためさせていただきました。
物語を書くと決めて、始めか途中か終わりか、どこかの段階で(今となっては定かではないのです)、ふと大木のモチーフを編んでみようかなという気分になり、記憶を呼び起こしながら編み編み、チクチクしました。
物語中に画像を挿入していますのでご笑覧いただければと思います。
あの日あの時の記憶を手繰り寄せてできたものです。今、同じように記憶を頼りに作成したらまた別の雰囲気の大木ができると思います。
心の中にある色、形、イメージ、雰囲気などなど、毎日一分一秒違って感じているものではないかと思うのです。それくらい、心の中の景色は移り変わり、流動しているのではないかとも思うのです。
一瞬の画像を切り取って表出させた一作品です。
瞑想と呼吸の先生につくってみては? と勧められた大木のモチーフ、この提案が妙な気分のきっかけでした。
私一人では、大木のモチーフをつくるという発想は端からありませんから、意欲が湧いてくるはずもありません。
その時の言葉のカケラを、心の片隅で見つけたのです。
浜辺でキラキラのシーグラスを見つけた時のように。ちょっとウキウキしてそれを手にしたのです。
「たねくん、大木になる」を読んでくださった方々、スキをくださった方々、温かいコメントを寄せてくださった方々に改めて感謝申し上げます。
瞑想と呼吸のはるか先生、この物語を書くきっかけと大木のモチーフをつくるきっかけを私に与えてくださりありがとうございます。それから、いろいろな気づきをもたらしてくださりありがとうございます。
近藤先生、私の中の「たね」の存在に導いてくださりありがとうございます。
お二人の先生に改めて深く深く感謝いたします。
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