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長編小説 「天神橋ラサイカレー」 下巻

      13

  ランチタイムは客を待たせたが、春江と帆蘭でなんとか店を回すことができた。
 仕込みは前日に、玉ねぎのペーストまでを大友がつくってくれていた。
 暇な時間を繋いで、帆蘭は圧力鍋で肉のスープをつくり終えた。
 明日の仕込みの最後に使う、「秘伝のエキス」はシビルしかつくれない。
 突然、動揺が帆蘭の全身を襲った。嘘だろう!
 慌てて冷蔵庫を開けた。手前の牛肉、豚肉、チキンを取り出して、エビを脇に寄せ、奥まで覗いた。
 あった、野菜やチーズなどの食材の奥に、ボトルの頭が見えた。取り出してみると、間違いなく秘伝のエキスだった。
 ほっとした帆蘭から力が抜けた。
 4本のエキスがまだ残っているということは、あと二週間は間に合うことになる。シビルはそこまで計算して失踪したというのか。

 夕方にはヒェンがきてくれ、春江と交代した。
 ヒェンは彼女なりに心配していた。
「店長、永住VISA、難しくなるネ」
「どうして?」
 ヒェンが考えていることがわからなかった。
「何か悪いことあると、許可出ないでしょう」
 そりゃそうだけど、VISAを心配するとは、さすが外国人だ。
 何かの折に大友から聞かされたことを帆蘭は思い起こした。
 シビルは家族を日本に呼び寄せるために、何度か永住許可申請をしていた。二十年も日本に住んでいて、定職を持ち、日本人並みの給料があれば許可されるのではないかと、帆蘭は簡単に考えるが、それほど甘くはないのだ。
 一回目は税金の未払いが原因で門前払いをくった。二回目は大学生の息子を呼び寄せようとしたのだが、スリランカの日本大使館で面接があったときに、息子は大学の所在地を答えられず、在籍の嘘がバレた。
 さらに追い打ちをかけるように日本大使館員が、八歳の娘はシビルの子供ではないと突き付けた。シビルは声を張り上げて怒り、自分の本当の娘だと言い張ったが、大使館員が出した根拠は、その子が誕生するために必要な期間、シビルは日本から出国した履歴がなかった。それなのに、あなたの子供が生まれるはずがないという情け容赦ないものだった。
 その摩訶不思議は馬鹿らしいことだった。出生してすぐに届けず、後になって自分の都合で出生届を出したという。生まれた日がでたらめだったのだ。スリランカではそんなことがあるようだが、日本では通用するはずがない。

「店長はヒェンさんに、何か言ってた」
「スリランカには、帰らないって」
 何が何だかわからなくなった。シビルは時として怒りさえ覚えるほどのでたらめ野郎だ。そんな店長の下で、真面目に働いている俺のほうが、どうかしているんじゃないか。帆蘭は嘆きたい気分だった。
「いらっしゃいませー」ヒェンが客を迎えた。
 帆蘭も、いらっしゃいませ、と頭を下げた。
「店長の居所はわかったかい」
 入口に立って、そう訊いたのはシビルと親しい間柄の来嶋だった。
「いえ、まだなにも」
 帆蘭が首を振ると、来嶋は、
「そうか……、それならまた来るわ」
    言い残して帰った。
「あの人、ダレですか」
 ヒェンは来嶋の姿が消えてから訊いた。
「常連さんやけど、会ったことなかった?」
「はじめて見ました」
「そうか、あの人、来嶋さんというんやけど、いつも平日の昼間に来て、土日は来たことないから、学校帰りのヒェンさんとは擦れ違いやな」

 帆蘭はカウンターの外に出て、テーブルと椅子を除菌クロスで拭きはじめた。
 先輩の行動を真似て、ヒェンはカウンター内の調理台を拭きだした。
「店長の友だちですか」
 分類が難しい質問だった。プライベートで一緒に遊ぶのなら、
「友達やな」
「一緒に、カラオケ、行ってる人ですネ」
「どうして知ってるん」
 帆蘭よりもヒェンのほうが早耳のようだ。
「店長、教えてくれたヨ。カラオケ、キャバクラ、おごってくれる人がいること」
 いつぞやのシビルと来嶋の会話がよみがえった。
(社長、このまえはアリガトウございました)
(面白かったかい)
(ハイ、楽しかったナ。また、お願いします)
 シビルのまたお願いしますは、キャバクラだったようだ。毎回毎回、シビルはおごってもらっていたのか。
 何度かに一度でもシビルが払ったとしたら、毎月の送金に響くはずだ。それだと夫婦喧嘩も起こるだろう。実際にライン電話でシビルが怒鳴っている場に帆蘭はいたのだ。
 接待側の来嶋にしたら、シビルのどこが気に入って連れ歩いているのだろうか。帆蘭は頭をひねってしまう。
 外国人が珍しいのかねぇ、とはヒェンの前で口にできない。

 健康食品の通販で儲けているから、酔狂でやっているのか、それとも起業家の強かさがあれば、スリランカへ業務拡張するための足掛かりとして目をかけているのか。
 帆蘭はヒェンに確認してみた。
「よく一緒に遊んでるって言ってたかい」
「よく行ってる。店長、上いて歩こう、酒よ、歌ってたヨ」
 坂本九の歌はわかるが、(酒よ)は知らない。帆喇よりベトナム人のほうが演歌に詳しい。
「キャバクラのことも話してくれた?」
「それは少しだけ。でも、好きな人いるネ」
 ヒェンが意味ありげにニヤっとした。
「なんでわかるん」
「若い女、プレゼント、嬉しいものはナニ? ワタシに訊いたから、わかるヨ」
 これからはシビルに対する認識を変えなければならないだろう。
 人間的には狡いところがあるシビルだが、家族に対しては責任感を持って毎月仕送りをしている。当たり前のようだが、自分の生活を慎ましくして、送金の額を多くするのは容易くはないはずだ。そんなところを評価していたが、一方で女遊びをしていたとなると、ちょっと考え直す必要がある。
「日本人の欲しいもの、わからないと言ったら、外国人だと教えてくれたヨ」
 ヒェンが知っているのはそのくらいだった。

 翌日は一日だけ休んだ大友が出勤した。
 開店準備のご飯炊きを担う帆蘭は、四升の無洗米をステンレスのボールに入れて、さっとひと洗いした。無洗米は精米時に肌ヌカまで取り除いているので水で磨ぐ必要はないのだが、不純物が万一混じっていないかを確認するために一度簡単に洗っている。
 ガス炊飯器の内窯にネットを張って、そこへ洗った米を入れ、水は2リットルの計量容器4杯分を少し減した量にする。心持ち硬めの炊き上がりにしていた。

 ガスの火をつけるのは30分後だ。帆蘭は大友に喋りかけた。
「ゆっくりできましたか」
 大友は50枚の豚肉に塩胡椒をかけて、小麦粉をまぶし、バターパウダーを溶かした液に浸けてからパン粉をまぶして、揚げるまえまでの仕込みを続けている。
「久しぶりにスポーツクラブに行ってきたよ」
 週に2回、大友はスポーツクラブに通っていた。流行りの筋肉をつけるのが目的のジムではなく、ストレッチ感覚で健康を保つために利用するスポーツクラブらしい。とはいえスポーツクラブにもたいていの器具は揃っている。
「どんなメニューをこなすんですか」
「ランニングマシンで30分間早足で歩いて、バイクのペダルを20分こぐのが主かな。あとはショルダープレス、チェストプレスなどの器具で、上半身や足を鍛えるんだが、私はせっかちだから、腹筋背筋などを数回やって、そのあとはプールだな」
「スポーツで身体を動かしたときの汗は、ストレス発散にいいんでしょう。大友さんみたいにスッとした人がいると、女の人が寄ってくるんじゃないですか」
 そのくらいのお世辞は帆蘭も言えた。
「ぜったいモテると思うわ」
 春江も清掃の手を休めずに加わった。
「それがな、女性からいつも脚光を浴びている男は違うんだ」
「え、どんな人ですか」
 スポーツクラブに通う余裕はないが、帆蘭にも多少の興味はある。
「モテる男はな、高血圧や糖尿病を患っていて、さらにはリウマチや喘息があるような老人がモテ囃されるんだ。脳溢血で倒れた病歴があって、歩くよりも遅いスピードでも、走ったりすれば、もうスター並みだぞ」
 それが本当なら、見るからに健康そうな大友さんはつまはじきだな。帆蘭は笑って、冗談を盛り上げた。

 ルーのとろみ加減は蜂蜜の銘柄を元に戻してからは完璧だった。味見をした帆蘭は、美味しいと自分にうなずく。
    本来は店長の役割責任だが、シビルの音沙汰は聞こえてこなかった。
「店長は〈上を向いて歩こう〉が歌えるそうですよ、知ってましたか」
 それには春江が答えた。
「知ってる知ってる、聞いたことがあるわ、音程は外れてたけど」
「それから、えーと」
「酒よ、やろ。その二曲だけやで」
 春江はよく知っていた。付き合っていたという噂が過り、帆蘭の背中にまた蕁麻疹の痒さがきた。
 帆蘭は両肩を回しながら、下着のTシャツを肌にこすって痒さに対応した。
「なにやってんの」
 原因になっている当の春江は、不思議そうに笑いながら続けた。
「シビルは来嶋社長と仲よくなってから、よく飲みに出歩いてたんとちゃうかな」
    バイトが店長のことを呼び捨て。背中の痒さがやまない。
「ハルちゃん、それをどうして知ってるんだい」
 揚げ物の仕込みを終わった大友が言葉をはさんだ。
「シビルは嬉しいことがあったら、何でも自分から言うから」
「その、嬉しそうな期間というか、来嶋社長と一緒に遊びはじめたのはいつごろかな」
「そやねぇ、半年くらい前からとちゃうんかなぁ」
「私が気になったのも、その時期だな」
 大友が納得するようにうなずいた。
 そんなに前からだったのか、帆蘭が気づいたのはずっと後のことだ。
「だけど最近は元気がなくなっていたな」
 帆蘭に思い当たる節があった。
「来嶋社長が誘わなくなって、落ち込んだのと違いますか」
「三週間くらい前からですよ、遊ぶ話しをせんようになったんは」
 春江の情報がシビルのプレイべートに一番近いようだった。

 帆蘭は昨日のことを思い出した。
「きのう、来嶋社長が来たんですが、店長がいないとカレーを食べないで帰りました。その際、『居所はわかったか』って訊いたんです――。俺は休みをもらってたんでわかりませんが、店長がいなくなったあと、来嶋社長は来たことがありましたか」
 春江は平日午後三時までの出勤だったが、シビルがいなくなってからは、午後五時まで延長して残ってくれていた。ヒェンは春江と交代で出勤していて、大友は毎日通しで働いていた。
 そうなると三人のうち誰かは来嶋と顔を合わせているはずだった。まずヒェンは会ったことがないとわかっている。
 考えていた春江が先に口を開いた。
「うちは会うてないわ」
 続いて大友が答えた。「来てないな、間違いない」
 それを聞いた帆蘭は首を傾げた。
「だったらどうして、店長が居なくなったことを知ってるんでしょうかねぇ」

 壁掛け時計で時刻を確認した帆蘭は、ガス炊飯器のスイッチをカチカチッと連打した。ボォ! と音がして勢いよく火が付いた。
 春江はカウンターの上にスプーンや薬味を並べはじめた。
「個人的に連絡を取り合ってたんとちゃいますか」
「シビルが自分で来嶋さんに、失踪してることを教えたってこと?  それも変だな」
 大友は春江の推理を否定した。
「茶喇屋、来嶋さんは、居場所がわかったかって訊いたんだよな」
「そうです」
「それなら、来嶋さんもシビルを探してるってことだ」
「そうなりますね。やはり心配してるんでしょうか。まったく人騒がせな人ですね」
 何やかやとシビルの件を話していたら、開店時刻になった。
 春江が開店プレートを表に出し、大友は白いコック服の前ボタンを上までかけてから、紙製のコック帽をかぶった。
 帆喇は炊き上がったご飯を保温ジャーに移すと、ガス炊飯器の内窯をネットと一緒に洗い、すぐに次の米のセットをした。
 すべての準備を終えて、来店客を待つばかりになった。

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