考えてみた話~魔王/Base Ball Bear~
はじめに
今日は前回お話ししそびれていたベボベの『魔王』という曲のタイトルが、なぜ魔王なのかについて考えてみたのでお話しします。
シューベルト歌曲:魔王
まず、『魔王』と聞いて何が思い浮かぶでしょうか。
私は、中学1年生の頃に習ったシューベルトの歌曲『魔王』という曲が真っ先に思いつきました。
病気の息子を抱えた父親が馬で病院まで連れて行く途中で、息子が「魔王が見える」と怖がり、病院につく頃には息子は亡くなっていた、というお話です。
息子に魔王は見えているのに、父親は見えておらず、「それは霧だよ」や「枯葉の触れる音だよ」と優しくも残酷に息子の恐怖を理解してくれない父親が登場します。
また、印象的な三連符、「お父さん、お父さん、」と甲高く切なく恐怖を訴える息子を覚えている人は多いのではないでしょうか。
この歌曲は、ゲーテが作詞したもので、シューベルトがピアノで作曲したものです。
また、このシューベルトの『魔王』は、デンマークの伝承をベースにした『ハンノキの王の娘(Erlkönigs Tochter)』に基づくと考えられています。「ハンノキ」とは、カバノキ科ハンノキ属の落葉高木。「ハンノキの王」は、樹木の精霊の王という超自然的な存在として描かれています。
日本における魔王とは
ここで、日本語訳に使われている『魔王』という単語の定義を考えてみましょう。
Wikipediaによると、魔王とは本来は仏教用語で、六道輪廻世界観において欲界の第六天にあたる他化自在天にあり、仏道修行を妨げる「第六天魔王波旬」のことであるそうです。
のちに、その他の神話や伝説における邪悪な神格の頂点、もしくは悪魔や怪物、妖怪などの頭領の呼称として幅広く使用されるようになりました。
これらのことから、魔王とは超自然的な存在であり、人間が簡単に抗うことはできない邪悪な神格の頂点にいる存在であると考えました。
魔王のような存在だった僕へ
ベボベの『魔王』に戻ります。
それではなぜこの曲のタイトルは『魔王』なのでしょうか。
それは、自分が魔王のような存在だったということです。
例えば学生時代に感じていた孤独感を、まるで自分は人に疎まれる存在、認めてもらえない存在であったことを魔王のようだと表現していると考えました。
シューベルト歌曲『魔王』において、魔王が存在していたと考えると、魔王はその存在を父親の息子にしか認識されていません。
その息子が、どんなに父親に魔王の存在と感じる恐怖を伝えても、あしらわれているようです。
もし本当に魔王が存在していたら、もし、私が魔王だったら、ずっと誰にもその存在を認めてもらうことなく生きてきたのに、自分存在を認識してくれる人物(息子)が現れたなら、とても嬉しい出来事なのかもしれません。
やっと自分の存在をわかってくれる人が現れた、と報われたような気持ちになるのかもしれません。
ずっと大切にしたくて、そばにいてほしくて、連れ去りたくもなるのでしょう。
誰かに疎まれるような、その存在さえも認めてもらえていなかった自分を認めてくれた人を大切にしたい、そんな思いを以て作ったのかな、と思いました。
さいごに
今日は短い文章でしたが、たくさん考えることができて、楽しかったです。
皆さんはどうお考えでしょうか。
ここまで書いた文章は私の考えであり、作詞のこいちゃんのインタビュー等は見ずに考えたことです。
全くの見当違いの可能性が高いです。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
♡励みになりますありがとうございます。
参考文献