連載怪奇小説・『あの男』 第一話
夜の帳が降りた頃、仕事帰りの私は車を走らせていた。都市部と田舎を繋ぐ長い一本道、西大通り。この時間は車もほとんど通っていない。ユリノキの並木道は壮観ではあるが、同じ景色が永遠と続くため頭がおかしくなりそうになる、60キロで走行したとしても、20分はかかる長い一本道だ。景色が全く変わらないため、まるで同じ場所を何度もループしているような錯覚に陥り、注意が散漫になってしまう。
「この道、永遠に続くんじゃないか…」
そう思うと、なんとなく気が滅入る。私は冷たい風を浴びて気を引き締めようと、窓を開けた。風が頬を撫でるように吹き抜ける。冷気が車内に入り込み、頭が少しだけクリアになった。だが、目の前には依然として同じ風景が広がっており、まるで時間が停止しているかのようだった。
この退屈な一本道は、まるで現実と幻想の境界線を走っているようであった。夜の闇に包まれたユリノキの葉が、車の前照灯に照らされてキラキラと光り、まるで別世界への入り口のように見えた。私は深呼吸し、手を強く握りしめてハンドルを握り直した。
「ふぅ、焦るな、焦るな…」
仕事の疲れとぼんやりした意識からか、ため息が漏れ自分に言い聞かせるように呟いた。
数分が経過し、ふと視線を外に向けると、目の前には一軒の民家が佇んでいた。その外観は、深い夜の闇に包まれ、ただ玄関の明かりだけがぼんやりとその存在を主張していた。私は車の窓枠に肘を預け、静寂に包まれたその家を眺めていた。
その時、
「どんどんどんどん!どんどんどんどん!」
突然、階段をけたたましく駆け上がるような音が民家から響いてきた。
まるで何かに追い立てられているかのように、あるいは逃げるかのように。
民家の中で何が起こっているのか、何か嫌な予感がした。
「なんだ一体...」
私は目を細め、状況を把握しようとした。
次の瞬間、
「う、うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ!!!!!」
民家から絶叫が上がった。
言葉というよりは、魂が裂けるような悲鳴だった。
声だけでおぞましいことが起こっていると分かる、悲しくうわずった悲鳴
最初はただの幻聴かと思ったが、その叫び声は確かに存在し、静寂を切り裂いて、私の耳に突き刺さった。
「ド、ドッ、ドドッドドッドドドッ」
私の心臓が早鐘を打ち、恐怖が理性を上回る。
「何が起こっているんだ…」
私は静かに車を路肩に寄せ、民家へと視線を投げかけた。叫び声は一時的に途切れたかと思いきや、再び夜の静けさを引き裂くようにして響き渡った。
その家の内側で繰り広げられているであろう光景を想像するだけで、背徳感と好奇心が交錯し、私の心を締め付けた。恐れと探求心が背中を押すように、私は車から降り立ち、ゆっくりと民家へと足を踏み出していった。
「やめてぇぇ゛ぇ゛ぇ゛~、もうやめてぇぇ゛ぇ゛~~~あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛」
今度は女の悲鳴が聞こえた
絶望と苦痛が混じり合う、悲痛な叫びだった。
声は次第に弱まり、哀れな泣き声へと変わった。その音色は、もう二度と聞きたくもない、心を引き裂くようなものだった。
女の叫びが空気を震わせるや否や、玄関のドアが何者かに蹴破られ、ドカッと響く音とともに開いた。
そこに立っていたのは、血まみれのナイフを握りしめた黒服の男だった。
彼は誰かを引きずりながら、のそのそと歩みを進める。よく見ると、頭から血を噴き出した男の首根っこを強く掴んでいた。
引きずられる男の頭からは、ぴちゃぴちゃと血が床に垂れ落ちており、その表情からは生命力が徐々に失われていくのが見て取れた。
玄関の灯りが、ドロッとした血の赤を鮮やかに映し出し、彼の黒いTシャツに染み込む。殺人鬼——その言葉が脳裏を掠めた。
外に出てまわりを確認していた男の視線が私を捕らえた。私もまた、玄関の薄明かりの中でその男の恐ろしい瞳を捕らえた。
男は不気味に佇みこちらを凝視していた
その一瞥は、言葉よりも雄弁に、何か不吉な予感を私に伝えた。
黒服の男の目は、何かが壊れてしまった悲しみを宿す、仄暗い光を放ちながら、私を見据えた。
全身が恐怖に引きつり、動けない、叫べない。
その瞬間、私の頭に浮かんだのは、
「顔を見られた!?ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ」の一語だった。
被害者のことは頭から消え、自分の安全が唯一の関心事となった。
我に返り、助けに行くべきか、それとも逃げて車を走らせて警察に連絡すべきか、逡巡する。心臓の鼓動が耳鳴りのように大きく響いた。
私は踵を返し、車へ一直線に逃げた。慌てながらエンジンをかけ、逃げるように走り出した。
「やばいやばいやばいやばい」
あの男の顔を反芻しながら、まるで永遠に続くかのような、気が狂いそうな並木道を駆け抜けていた。
すると、古い写真のシャッター音のようなものが聞こえ、並木道から一瞬にして異空間へ移動したかのように場面が変わった。
観覧車の音?子どもの声が聞こえる…。
そこは遊園地だった。
遊園地の中心に、私の車は孤立無援のまま佇んでいた。
「ここは、どこだ・・・ほんとに頭がおかしくなっちまったのか・・・」
私の声は、周囲の喧騒にかき消され、まるで存在しないかのように扱われた。
遊園地に集う人々は、私の混乱や不安を無視するかのように、自分の世界に没頭し、楽しげに過ごしていた。
観覧車がゆっくりと回り、子供たちの笑い声が風に乗って運ばれてくる。
だが、その全てが、私にとっては異次元の出来事のように、遠く、そして非現実的に感じられた…