野口英世と検疫について語る
NHKの新プロジェクトXでは2週にわたって「新型コロナウイルスと医師との闘い」が報道された。1週目報道された横浜港でのダイヤモンド・プリンセス号の検疫事例については記憶に新しい。
横浜での検疫については100年以上前にペスト菌の事例があった。この検疫には当時検疫所で勤務していた野口英世も深くかかわっている。
なお、新1000円札の北里柴三郎、旧1000円札の野口英世は微生物医学の師弟関係であり、様々な点で接点があるので面白い。
これから、野口英世とペスト菌の水際検疫の事例を紹介する。彼の医師としての第一歩であるが、ほぼメディアでは報道されてない。
1899年5月、北里が所長となる伝染病研究所に勤務していた野口は横浜検疫所での勤務を北里から命じられる。野口は医大を出てすぐ22歳。
赴任すぐの6月、客船「亜米利加丸(アメリカ丸)」の乗組員が原因不明疾病に悩まされ横浜港に寄港した。野口含め検疫医官は、直ちに船に乗り込み、苦しんでいた中国人船員を診察し、鼠径部の腫れなどからペストの可能性が高いと診断した。
※野口は語学に長けていた。英語、中国語も話せただろうから患者からの聞き取り、応対などもそつなくこなせたものと考えられる。
船内で採取した患者の検体は検疫所の細菌検査室で野口が検査した。野口はペスト菌を顕微鏡で確認したとされる。しかし、野口としても検疫所としてもこれまでペスト菌の検出や診断を下した事例はない。
そのため、伝染病研究所に相談したところ、北里が派遣したのが志賀潔である。志賀は赤痢菌の発見者であり、この2年前(1897年)に発表している。
志賀は検体を顕微鏡で確認しペスト菌であると断定。この判断もあり、検疫所は患者はペストと診断し、船の港への停泊を禁止した。
横浜港へのペストの侵入を水際で食い止めたことにより横浜、ひいては関東へのペストの侵入は食い止められた。野口の功績は大きいが、日本の医者たちの連携プレーともいえよう。
水際作戦に成功した野口は北里から評価され、中国でのペスト対策に従事、その後渡米しスピロヘータ、黄熱の研究に邁進することになる。
やはり日本の微生物医学者たちの歩みは面白い。
記事を書いていて、彼らの強い意志に興味欲求が刺激されて、本当に楽しい。
(参考)