たしかに~、しかしー
「たしかにA、しかしB」の形で小論文を書かせるのは、意味がない。
「しかし」の後の「B」がトピック・センテンスになるのだが、重要な文を目立たさせるというのならば、Bから書き出せばいいのである。
トピック・センテンスを先頭に置く、という原則に反している。
「A」の部分に気をとられる読者も多い、ということを考えていない。
この形を使う者(使わせる者)は、「しかし」があるので、「B」が強調され、自然に「A」が弱くなる、と考えているのだろう。
修辞的にはそうなる可能性が高いのだが、「A」を検証しようと考える読者が存在するかも知れないのである。いや、「たしかに」と言われたら、そこで立ち止まるという読者も多いだろう。
「たしかにA、しかしB」の例(悪意を込めて)
たしかに、太陽は東から昇り、西に沈んでいる。しかし、それでも地球は回っている。
「たしかに」の後は『客観的事実』であり、「しかし」の後は「筆者の主張」である。
この時点では、客観的事実を覆す主張とは言えない。
「主張」が「事実」を打ち消すには、挙げられた「事実」以上に信頼性のある事実を根拠として提示しなければならない。
これに失敗すると、筆者の主張が単なる主観的な意見になってしまう。
そうならないために、「たしかに」の後に置く「客観的事実」を「主観的意見」にしておくやり方や、「筆者の主張」のみで覆すことができる程度の「事実」を述べるやり方がとられることがある。つまり「A」をできるだけ弱くしておくのである。
失敗しないためには、「しかし」の後の主張をトピック・センテンスとし、それをサポートする複数の文を置くことがよい。
そうなると、「たしかにA」は不要な部分である。削除すべきである。