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入れものがない両手で受ける:尾崎放哉

「両手で」ということは、ほんのわずかの間であることが分かる。両手が使えない状態で人間は長く過ごせないのである。たとえば、雨漏りの雨垂れを「両手で受ける」と、雨が止むまで何もできない。「両手で」何を受けるのか、と考えると、雨漏りのようなものとは考えにくい。

「入れものがない」とあるから、両手は「入れもの」の代わりの「両手」である。ほんのひととき両手で受け、何か他の物に移すのである。では、他の入れものを彼は持っていなかったのだろうか。持っていなかったとしたら、入れもののあるところまで、両手がふさがったままで移動し続けなければならない。そのようなことが実際にあったということも考えられる。そのような状況も可能性としてはあり得る。でも、ちょっと移動して、他の入れものに移し替えると考える方が現実的ではないだろうか。

入れものがあるのに、「入れものがない」と言う。それは両手で受ける「もの」と自分が身につけている「入れもの」が合致しないからだ。直接、袋や鞄に入れるわけにはいかないものなのだ。

このように考えてきて、初めて「もの」が「施しもの」だということが明らかになる。感謝の念をこめるもの、つまり、軽々に扱えないもの、相手にも自分にも大事なものなのである。もちろん、直感的にはもっと早い時点で読者には分かるのだが。

作句の時代を考えれば、米などの穀物のようだ。炊いたご飯は手で受けるのは、あげる方も受ける方も違うような気がする。

尾崎放哉は托鉢僧まがいのことをしていたという。それならば、「入れものがない」というのは何故なのか。托鉢の椀は必需品である。持ってないというのは、ある意味で異常なことだ。そう考えると、わざと持たなかったとも考えられる。自分は托鉢僧のようにしているが、実は托鉢僧ではない。自分は「まがいもの」であるという意識があったのかも知れない。

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