小説・こぶし
とにかく自分で決めたことだから、
今やらなければ口先だけになってしまうじゃないか。
「よしっ」、こぶしを小さくにぎりしめて立ち上がった。
学生の頃、学生という世界がほぼ全部を占めていた時期、その中で目一杯個性を出す先輩たちが輝いて見えた。あの人たちは、きっと広がっていく自分の世界を、広がるたびにストレッチしながら、輝き続けるのだろう。
あの人たちが大好きだった。
その中で、自分も後輩から見たら輝いていたのだろうか。
今の自分が嘘つきのように感じられた。
「部長、今日飲みに行ってくれませんか?」
声が大きかったかなと、少し周りが気になった。
部長は一瞬困った顔をした後に、
「いいよ」19時半に上がろう。と笑いながら言って、またすぐ忙しそうに仕事を始めた。
この人は嫌いではない。
日常がとことん忙しくてぶっきらぼうだけど、話すときは必ずこっちを向いてくれるし、飲みに行くと朝まで付き合ってくれる。
ワーキングホリデーを使って海外に行くことに決めて会社を辞めた。
大きなプレッシャーは感じていた。
4年間、使う間もなくためた有給休暇を、ここで一気に使うことに決めた。
仕事は、4年目にして会社でも頼られる方だという自覚はある。でも、教えられたことを正確に行うことが窮屈だった。自分の質問が、先輩の用意している答えとは合わずイライラされることがよくあった。そんな時でも、みんな忙しいから答えのない質問はできない、とあきらめていた。
あの頃の自分が、海外に行ってみたいと言ってたことをまるで実行していないことを、この行動の理由に仕立てあげた。安くも高くもない、自分にはちょうどいい理由だと納得した。
理由は自分にとって必要だった。
「やっちゃったかなあ」
「何が?」
兄らしい顔をして健ちゃんがこっちを見た。
その顔が少し面倒だったので、「いや、なんでもない」と言って話を終わらそうとした。
隣にいるもう1人の兄が「いやいや、この踏ん切りはすごいよ、俺もワーホリやりたかったな」
「ところで、どこに行くの?」
「カナダ」
「カナダのどこ?」
「トロント」
「日本人はたくさんいる?」
「なるべくいないところに行きたかったんだけど、どこも日本人いるみたい」
「何言ってんだよ、英語も喋れないくせに、日本人がいる方が安心できていいじゃん」
健ちゃんが口を挟んできた。
このやりとりは、人に会うたびに毎回行われる、まるで儀式のようなものだと諦めているが、あまりにも一言一句違わない問答は、本当にそうかどうか、今度ノートに書いてみようかと思えるほどだ。
「ところで、カナダのバイトって何やるんだ?」
「知らない、向こうで探す」
「えっ」
「なんとか探すよ」
「きっと面接は英語だぜ」
「なんとかなるよ」
兄2人が顔を見合わせて笑った
結構酔ってきたと思って時計を見たらもう23時を回っている。飲み始めたのは19時だから、かれこれ4時間以上兄達と飲んでいる。
すぐに酔っ払ってしまう上の兄ひろくんと、飲めるふりをしながら一向にコップの中身が減らない下の兄の健ちゃんから突然、兄弟飲みしようぜ、と誘われたのは意外だった。渡航の準備やら送別会やらで忙しい身ではあるが、誘われれば嬉しくて飲みに来た。
兄達と真面目な話をする気はなかったし、彼らもそんな気はさらさらないようだ。
「ところで、お前の友達、みんな関東に帰ってきてるね」
「うん、そうなんだよね」
「まるでとしに合わせてるみたいだな」
笑いながらひろくんが言ったので、
「そうそう、としがいなくなるとみんなつまんなくなっちゃうんだよなー」と、おどけて見せてみんなで笑った。
3人で飲むのは嫌いでなはなかった。
僕たちは、兄弟と友達の間みたいな、ちょうど心地よい関係だと思った。
僕が中学生の頃だったと思う。
釣り好きな両親に連れられて家族で川に行ったことがあった。自分たち3人が暇を持て余して下流の方にぶらぶら歩いていくと、やんちゃそうなにいちゃん達が上半身裸で橋の上から川の深いところに飛び込んで遊んでいた。どうしてそうなったかは覚えていないが、一緒に橋の上に座りながら飛び込む彼らと仲良く過ごしたことがある。もちろん、自分たちは飛び込まない。
「お前らも飛び込めよ、気持ちいいぜ」
「いや、結構です」とひろくんが答えると、
「そうかー」といって、
タタタっ、ザブーン、結構高いところから少し走って飛び込む彼らを見ていた。
そのうちの1人が、「君たちどういう関係?」と聞いてきた。僕たちはその人のことを"背中のにいちゃん"と呼んでいた。なぜなら、みんなが一回転しながら飛び込んでいるにも関わらず、彼だけは半回転しかできず背中から着水していた。それが毎回なもので、僕たちはおかしくて飛び込むたびにケラケラと笑っていた。
そのにいちゃんが聞いてきたものだから、またおかしくてたまらなかった。
どんな関係も何も兄弟に決まっている。
「兄弟です」とひろくんが答えると、
「えー!」とすっとんきょうな声で驚いていた。周りの友達も驚いていたところを見ると、本当に兄弟に見られてなかったようだ。
「としは、ロックだからな」
唐突なひろくんの言葉に、健ちゃんも、うんうんと頷いた。
一瞬、ウイスキーのことかと思ったくらい唐突だった。
「え、」
「浅い知識の中の言葉を使うなよ」
投げやりに言ったのは、ロックという言葉をどう受け止めたものか迷ったからだ。
「今回のことは、ゆめがあってそれを実現するために行くわけじゃないだろ」
「今の仕事を否定することで、あたかも積極的に見せている、というわけでもないだろ」
ああ、そう言う意味か
「まあそうだけど」
そんなことを言われたのは初めてで驚いた。しかもこの2人から言われたのは意外だった。
自分はいつも柔軟に対応しながら、…
「ああ、そういうことか」
「その上、他人に決めつけられることを繊細に嫌うよな」
健ちゃんがいうと、
「勝手に決めつけてくる奴はみんな嫌いだよ」
ひろくんが笑って言った。
「そうじゃなくてさ、友達にもさ」
「もし友達が決めつけられるようなことを言われたら、言った奴のことを本気で嫌いになるじゃん」
言葉を選ぶようにして、健ちゃんが切り出した、
「でさ、としは自分で自分のことを決めつけているんじゃないかと」
「どういうこと?」
「低くも高くもない場所に居ることで納得しているけど、」
「本質の部分が納得していないんじゃないかと」
「だから、どういうことだよ!」
腹が立ってきた
「かってにきめつけるんじゃないよ!」
まあ、聞けよ
「これは俺たち2人で話して同意見だったんだから、そう遠くはないと思うぜ」
「聞きたくない」
「俺らの結論は簡単だよ」
「としは、高くもなく低くもないところを好むような奴じゃなくて、冒険やろうだってことだよ」
「勝手なことを」
「としは、答えが見つからないんじゃなくて、つよく思えることが見つかってないんじゃないか?」
「用意された答えに興味を持たないやつだからな」
「だから、答えがセットでない世界に飛び出すことに賛成だよ、頑張れ」
健ちゃんが言うと、
「これは大いなる決断だよ、お前はそういうことを軽々やってしまうやつだよ、頑張れよ」
ひろくんが言った。
この人たちは、これが言いたくて、誘ったのかと今更ながら気づいた。
嘘つきは、自分にかもしれない。
いい決断なんだ
机の下で、こぶしを強く握った