見出し画像

がんばりすぎている人にためしてもらいたい「ニーナのおまじない」 

久しぶりに友人と会ったら、子どもが就職活動をしていると言う。もうそんな齢になったのか。今の就活は大学3年生の春あたりから準備を始めて、大学4年の夏あたりには決まる人が多いらしい。おそらく大半の人にとっては手間も時間もかかる試練だろう。

私がはじめて就活をしたのは1980年代のことだったので、今ほど大変なことはなかった。が、あくまで私の場合ではあるが、食いつなげられればいい、程度で安易に決めてしまったので、後悔することはあった。

その次に就活をしたのは子どもがある程度大きくなってから、いわゆる「就職氷河期」の頃だった。若者さえ就職先に困るのに、子持ちの主婦が簡単に就職できるはずもなく、最低賃金のパートでも、雇ってもらえるだけでよかった。病児保育などというものもなく、子どもが熱を出したら保育園から「お迎えお願いします」と電話がくる。頭を下げながら早退させていただいたものだった。

子どもが成長していくと働ける時間など都合も変わるので、いくつかパート職を転々とした。その度に履歴書を書いて電話して試験や面接を受ける。それが私の就活だった。

今の就活のことは、自分の子どもが就活する頃になってから知った。聞くだけでも大変そうだ。

自己分析して自分がどんな仕事をしたいかどんな仕事に向いているか考えて、業界や企業についてリサーチして、インターンシップがあるところは参加して、卒業生がいるところは訪問してみたり、そしてやっぱり受けてみようと思ったら説明会に出て、エントリーシートや履歴書といった応募書類を書き、エントリーして選考試験(筆記試験、グループディスカッションなどいろいろ)を受け、通ったら面接(一人だったりグループだったり)。そんなことを進めながらマナーについて勉強したり就活セミナーに参加してみたり、ダメだったら何がダメだったか分析して次に向けて対策したり。

だから準備を始めるのは早いほどいいという。情報はスケジュールに従って出てくるわけではないし、時間がなくなってくるほどに苦しくなる。

一回一通りやるだけでも大変そうだけど、これを受かるまで繰り返す。
20社から30社くらい受けるのは普通だそうで、当然落ちることもあるし、すると当然落胆する。だけどできるだけ早く気持ちを切り替えて前に進まなければならない。しんどいだろう。

うちの子は特別優秀なわけでもなく、しゃべりもうまくない。そういう自覚があったのか、「数打つ」という作戦で闘っていた。
エントリーだけなら50社くらいしたらしい。初エントリーから半年以上の闘いの後、ようやく一社内定をもらった。

この内定が出る前に、「お祈りメール」というのを見せてもらったことがある。不採用通知のさいごに必ず「これからのご活躍をお祈り申し上げます」と書いてあるところからこう呼ばれるそうだ。予想していたとしても、実際もらうとじんわり効くにちがいない。

お祈りメールを受け取りながら何度もトライし続けるのは、どんなにか不安なことだろう。もしかしたら自分はダメなんじゃないか、今度もダメだったから次もダメなんじゃないか、何度やってもダメなんじゃないか。そんな方向に気持ちが流れていっても不思議はない。

就職にはその後の人生――もしかしたら何十年もの――が、かかっている。こんな会社に就職してこんな仕事をしたい、こんな人生を送りたい。就活をはじめたときには夢も希望もあったはずなのに、もしかしたらそれを手に入れる時はこないのかもしれないと思い始める。いや、たまたま相性が悪かっただけだと思いなおしてエントリーシートや履歴書を工夫して書き直してみる。面接セミナーを受けてみる。靴を磨いてみる。とにかくいろいろ頑張ってみる。それでも内定に至らないと、だんだん気持ちが追い詰められていく。もしかしたらノックのしかたが悪かったんじゃないかなんて細かいことまで考えはじめる。でも面接官はいつも違う知らない人だ。知らない人に合わせるなんて無理―と思ったりする。

という気持ちの流れは10数社連続不採用になった私の経験による類推だ。こんな人はいると思う。そして多くの人は押しつぶされそうになりながらもなんとか踏ん張っていることだろう。

期待を裏切る結果をつきつけられると、ときにあらぬ方向に気持ちが向いてしまうこともある。こんなに頑張っているのになんで私は採用されないんだろう。もしかしたら自分ではどうしようもない条件でふるい落とされているのかもしれない。もしかしたら採点が間違っているのかもしれない。もしかしてこのテストは不公平なんじゃないか。誰かがひいきされているんじゃないか。公平に扱われていないとしたら、まともに闘っても意味がないのでは。

これもかつての私の気の迷いだ。連敗続きで頭が空回りしていた。

そして私は「替え玉受験」という不正手段があることを知った。幸いなことに大学生の就活とは違い、私にはその手段を考えるような機会はめぐってこなかったが、ひどく疲れると思考が病んでしまうことはある。ここを突破して面接まで行けさえすれば何とかやれるのに、問題が意地悪だから突破できないとか、そもそも不公平にできているんだから非常手段もやむをえないとか。その考えはなんとなく腑に落ちるような気がする。さまよう心はときに出口を間違う。

就職試験の中でもウェブテストは不正をしやすく、罪の意識も薄いようだ。疲れ切った心が崖っぷちでふらふらしていると、差し出された手を確かめもしないでつかんでしまう。それが棘だらけの枝であっても。
でも、そのときはいいアイデアのように見えても「替え玉受験」は犯罪だ。依頼する側もされる側も。それを見せてくれた事件があった。

この替え玉請負人は立派な学歴があり、こんな代行ができるくらいだから成績優秀だったろうに、大企業に勤務もしていたのに、試験の不正は犯罪だとは思わなかったのだろうか。彼もまた就活やり直しをするだろう。履歴書はどう書くのだろう。退職理由をきかれたら何と言うのだろう。

替え玉を依頼した学生3人も書類送検され、内定は辞退した。替え玉請負人が逮捕されたのが11月で、その後彼らの就活はどうなったのだろう。

この事件が報道されたことで替え玉受験は犯罪という認識は広がったはずだと思う。それでも請負業者はなくならない。依頼したい学生もまだ結構いるらしいが、どうか考え直してもらいたい。その選択は結局本人を幸福にしない。

替え玉でまんまと合格した人もいるのかもしれない。だけど、まともに受けていたら就職できなかったはずの会社に就職して、そこから思いもよらない苦労が始まるかもしれない。なんとかやっていくことができたとしても、いつか自分の子どもが就活するとき、目を見て話ができるだろうか。
今は仕方がないことだったと自分を納得させても、後悔する日もくるかもしれない。「罪と罰」の最後でラスコーリニコフは自分の罪を告白しないではいられなかった。他人に知られずにすんだとしても、自分だけは不正をしたという事実を知っている。誰にも言えない秘密をひとりで一生抱えていかなければならない。

「替え玉受験」をやった人も考えている人も、おそらくとても頑張ったんだと思う。だが、しんどいときに頑張りすぎると、かえって事態を悪くさせることがある。そんなときこそ今闘っている問題以上に、心身を平常に保つための何かをやってみてほしい。できることなら何でもいい。眠ることでも、身体を動かすことでも、好きな本を読むことでも、瞑想でも、自己暗示でも、要するに本当に本心から「気が進む」ことや「気持ちが安らぐ」ことだ。

私が学生のとき、お芝居を観てレポートを書くという課題があった。チェーホフの「かもめ」だった。好んで観に行ったのではなく、もうほとんど記憶はないのだが、終わり近くにニーナが「わたし疲れちゃった。休まなくちゃ。一休みしなくちゃ。」と言ったことだけ妙に覚えている。大女優になる夢には届かず、恋にも破れ、子どもには死なれ、三流(?)芝居の巡業をするしかないニーナは、それでも絶望していたのではなさそうだ。「私が立派な女優になったら観に来てね」と言うのだから。

しんどくなったときに、ふとニーナが現れて言う。
「疲れちゃった。休まなくちゃ。一休みしなくちゃ。」

改めて本で確かめると言葉は少し違っていた。作者の意図とは違う読み方をしているのかもしれない。だけど私にとってはこれでいい。おまじないのようなものだ。何か(何かはわからないけど)のスイッチを押してくれるような気がする。

頑張りすぎて疲れた人、ニーナの声に耳を傾けてみませんか。

数年前、別の友人の子は、かなり学業優秀だったのに不採用続きで、気落ちするあまり一時就活を完全ストップしてしまった。しばらく遊んでばかりで周囲の気を揉ませていたが、数か月ののち気をもちなおし、3月に採用が決まり、ぎりぎりセーフとなった。

#ニュースからの学び


いいなと思ったら応援しよう!