スマホと弁当:大江健三郎の『死者の奢り・飼育』を読んで
会社の昼休みに弁当を食べる。箸をにぎった手でそのままふたを開け、箱につめられたご飯を箸の先でちいさく区切り、ひとつを掴んで口に運ぶ。
同時に、左手でスマホを開き、ツイッターを見始める。何を見ようとするわけでもなく、目に飛び込んでくるツイートを流し読みする。
ご飯を箱の半分ほど食べたところで、ふと米粒のかたまりが、箱の外に落ちているのに気づく。
新潮文庫の『死者の奢り・飼育』(1959)は、大江健三郎の最初期の短編を集めた作品集である。
読書会のために、読んでみた感想をまとめることになった。どうまとめるか、と考えていたとき、スマホを見ながら弁当を食べていたらいつの間にか米粒が落ちていた。
なんとなく、「これ」のような気がした。
大江の小説では、ふたつのものが拮抗している。スマホ的なものと、弁当的なものである。
『飼育』を例にしてみよう。太平洋戦争の末期、日本の農村に米軍の黒人パイロットが墜落し、捕虜となる。村で暮らす少年にとって、捕虜は得体の知れない存在である。少年は世話係となり、黒人兵が墜落後初めて口にするものとして山羊の乳を渡す。
そのとき、山羊の乳は黒人兵の「はだけたシャツを濡らして胸を流れ、黒く光る強靭な皮膚の上で脂のように凝縮し、ひりひり震えた」。そして「僕は山羊の乳が極めて美しい液体であることを感動に唇を乾かせて発見するのだった」。
この場面を「スマホ的」なものとして読めば、色々な情報を取り出すことができる。まもなく米軍に占領され、「飼育」されることになる日本人が、つかの間米兵を飼育する、という皮肉。あるいは、黒人を動物のように扱い、その肌と白い液体を対比して鑑賞するという、白人に似た視線を日本人の少年が送ることの奇妙さ。さらには、山羊の乳を精液に見立て、少年にとっての同性への官能の目覚めを読み取ることもできるだろう。
一方で、「弁当的」なものとして読むならば、上記のような情報や文脈は関係がなくなる。読者は、少年とともに山羊の乳が黒人兵の唇から胸へと流れていく過程を見つめ、その視線はどんどん詳細なものになっていく。「ひりひり震える」様を想像のなかで延々とリピートすることもできるだろう。
小説をスマホ的に読むということは、「情報」として扱うことだ。小説を弁当的に読むということは、「物体」として扱うことだ。
両者の最大の違いは、要約できるかできないかにある。
スマホ的な情報は、原理上いくらでも短縮して伝達することができる。LINEスタンプ的な表現といってもいい。消費するのに時間がかからない。
一方で弁当的なものは、短縮や省略を拒む。食べ切るまでそこに残り続けるし、消費するのにある量の時間を要する。
さて、ここで重要と思われるのは、「スマホと弁当はどちらかにしか集中できない」点である。
スマホを見ていたら、弁当を食べる手がおろそかになり、箸から米粒がこぼれ落ちていくことに気づかない。逆に、弁当に集中して食べているあいだ、スマホのうえを流れていく情報が受け取られることはない。人間は手を二つ持っているが、目線は一つしか持ちえない。
大江の小説で「ふたつのものが拮抗している」と先ほど書いたが、両者は互いの領分を「この節はスマホ的、あの節は弁当的」と行儀よく線引きしているのではない。たとえば黒人兵に山羊の乳を与えるという一節がスマホ的か弁当的か、「どちらかでしかあり得ない」という態度で読者に迫ってくる。
しかし、読者は戸惑う。今読んでいる文章がスマホ的か弁当的か、わからないのである。この戸惑いは、小説が書かれた1960年ごろという時代のなかから、大江が引っぱり出してきたもののような気もする。とはいえわからないまま、読む(食べる)しかない。昼休みは短いからだ。