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【読書会後】マナー、文脈、ファッション

今回の課題本は、この9月にちくまプリマー新書から出たばかりの平芳裕子『東大ファッション論集中講義』でした。

絵画や彫刻といった純粋芸術に対して、ファッションはふだんの生活に根ざした応用芸術として成立しました。だからこそ、学問の対象としては長らく軽視されてきました。
平芳は、そのような状況を変えてきたファッション研究の先行世代として、次世代のファッション研究を担う若い世代に向けた講義を行いました。ファッションというものがどのような歴史をたどって人々の生活を変えたか。どのような社会や哲学の問題をはらんでいるか。さまざまな観点を紹介することで、成長中の「ファッション論」の輪郭が描かれていきます。

読書会のなかで、同書のハイライトとして挙がったのがシャネルのエピソードです。
女性の体を制約から解放するファッションを次々と実現したシャネルは、第二次大戦の前にいちどフランスの店を閉めますが、1954年に復帰するとアメリカで爆発的な支持を集めます。アメリカでは無数のシャネルっぽいファッション、機能性を重んじた模倣品が作られ、シャネルはそれをオリジナルのデザインが優れている証として許容しました。
アメリカのファッション業界は、パリの流行から一線を画したシャネルのスタイルに理想的なアメリカの女性像を見つけ、激賞しました。ファッションという言葉は服だけでなく流行も指すものですが、服は国や社会が変わればまったく違う文脈を付与され、文脈に沿った流行が生み出されることがわかるエピソードです。ちなみに、本場フランス以上にアメリカで評価され一大勢力を築くという顛末はフランスの哲学者デリダともよく似ていると思いました。

また別の話題として、「ファッションが好きな人は、自分がいま着ている服のブランドを言わない」という話が出ました。
ブランドを明らかにすることは、そのブランドが持つイメージ(価格帯やメッセージ、カテゴリ)を相手に伝えてしまう。意図しなくても、その強さを評価し合うゲームに巻き込まれてしまう。
だから、服好きはマナーとして、好きなブランドを自ら表明しない(人に聞かれたら初めて答える)そうなのです。
服好きからは程遠い自分にとっては面白い感覚です。服を着るけども、服以上の情報は着ない。絵画で言うなら、絵は描くけれどもタイトルやキャプションはつけないようなものでしょうか。美術館では異例の事態ですが、ファッションではマナー。消費と密接に結びついた応用芸術ならではの感覚だと思いました。

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