『夢の中で会いましょう』第三話:やりたいこと――神田川茜の言葉
はあ、今日も怠惰な日を過ごしてしまったわ。
掲示板の光に浮かぶ街を眺めながら惰性のみで足を動かす。その足は家に近づくほど重くなっていった。
家のドアを開けると倒れた椅子や時計が目に入る。それらを元の位置に戻して入浴する。布団に入る前に時計を見ると十一時半だった。
「おやすみなさい」
メイちゃんに挨拶をして布団に入る。あたしはこの数年でこんなに変わってしまったけれど、メイちゃんはずっと変わらない。いや、本当は変わっているのかも知れないけれどあたしからそれは見えない。
なんだってメイちゃんはうさぎの人形なんだから。
「こんばんは、本日も【まどろみの宮】にお越しくださりありがとうございます」
『お越しくださり』って台詞、少しおかしいわよね。こっちの意志で来たわけじゃないのよ。
「さて、今日はなにをして過ごしましょうか」
「決まってないなら呼ぶんじゃねぇって前も言ったよな?」
こうやって感情に任せて話す人、嫌いだわ。
「あー、まぁ、そうなのですが、こちら側としては皆さんのやりたいことをやった方がいいかなーと考えておりまして……茜さん。なにかしたいこと、ありませんか?」
「えっ、あたし!?」
急に言われて出てくるわけないでしょ!
「なんでも叶えられますよ」
「そんなこと言われても」
「……出てこないですか?」
「……遊園地に行きたいわ」
「具体的には、どのようなものがあるといいでしょうか?」
「絶叫系なら何でも」
「わかりました! では、用意いたしますね!」
緋衣さんは両手を打ち合わせて腰に下げていた大きな本を取り上げた。本に筆でなにかを書き込んでいく。すると、周囲の景色がだんだんと遊園地のそれへと変わっていった。
「ちょっ、ちょっと! おかしいじゃないですか、いくら神田川さんが絶叫系にっ、乗りたいからって……! この遊園地本当に絶叫系しかないです! お化け屋敷に入ったら取り残されて死んじゃいます! ジェットコースター乗ったら安全バー外れて死んじゃいます! まわるブランコみたいなの乗っても飛ばされて死んじゃうんですぅ! うわ゛ぁ゛あぁあ゛あぁ゛ぁ!! 気持ち悪い……」
ちらっと横を見ると、佐伯さんが嘔吐している。
「緋衣さん、スポーツドリンクとかないかしら」
「それなら自販機のボタン押せば出せますよ」
「ありがとう」
言われた通りにしてみると、本当に硬貨を入れなくても飲み物が出てきた。
「はい、これでも飲みなさい」
キャップを外したペットボトルを佐伯さんに差し出す。今日は坂田さんが彼女の背をさすっていた。あたしとしたことが、イレギュラーなことしてしまったわね。
「わ、わかった……後で飲むから、置いておいて」
いつも払い除けられていた手が受容される。坂田さんの手は、払い除けられたけれど。へぇ、意外と素直になってきたじゃない。
ようやく佐伯さんが落ち着いたとき、他の人はほとんど先に遊びに出てしまっていた。雨宮さんはずっと後ろでおろおろしていたけれど。なにもしないのなら居ないのと一緒だし、遊んでていいのよ。
佐伯さんも誘ったけれど、彼女は座って休んでいるそうだ。
仕切り直して、あたしたちは三人で遊びに出掛けた。
「あの、さっきはすみません。なにかしなくちゃ、と思ってたのですけど最後までなにしたらいいか分からなくて……お邪魔でしたよね」
「ええ」
なんでわざわざ言ってきたのかしら、フォローでも入れて欲しかったならお門違いよ。
「まぁ、それはいいよ。せっかく夢の中なんだ、楽しくやろう。二人はどこへ行きたい?」
そうね。
「「まずはあれ」でしょ!」
あたしたちはそろってジェットコースターを指差した。
「うわ、『あれ』」
垂直以上の落下を見せる『あれ』を見て、坂田さんは苦笑いする。
「問答無用」
「え、なに、切られる?」
彼の腕をつかんで、乗り口の方へ引っ張っていく。反対の手は、雨宮さんが引っ張っていた。
「いいよ、逃げないから離して」
「いえ、経時君を引っ張るところからジェットコースターは始まっているのです!」
雨宮さんと顔を見合わせると悪い表情をしていた。きっとあたしも同じような顔をしていただろう。
席について、安全バーを下すと乗り物は静かに動き出した。
……始めにされた質問に、あたしはきちんと答えられたのだろうか。
「やりたいこと」と聞かれてあたしの頭に浮かんできたもの、それらは全て「やりたいこと」ではなく「やらないといけないこと」だった。
毎日我を殺して、わざと忙しくして。自分に向き合ってこなかったあたしは「やりたいこと」という単純な質問の答えにさえ窮するような人間になってしまっていた。それが悔しくて情けなくて、叫んで発散してやろうと思って遊園地を選んだ。
それも立派な「やりたいこと」ではあるのかも知れないけれど、負の感情から顔を背ける手段のことを「やりたいこと」とは呼びたくなかった。
「やりたいこと」はその過程で負の感情と出会っても向き合えることを指す言葉だと思うから。
「うぁあ、怖い! そろそろ落ちるよこれ、う゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛!!」
安全バーで抑えられた足を最大限にばたつかせながら藻掻いていた坂田さんが絶叫をあげる。左側に座っている雨宮さんはあたしと同じように楽しさの混ざった高い叫び声をあげていた。その後も向きを変えて角度を変えて、ジェットコースターはあたしたちを翻弄した。
「はあー、楽しかったー。久し振りにあんな大声上げたよ」
「すっきりしたわね」
「僕は、もういいかな」
「あら、坂田さんも後半は楽しそうにしてたじゃない」
「吹っ切れたんだよ」
「じゃあ、次はそこのお化け屋敷に入ろうか」
雨宮さんが指差す方を見ると、病院を舞台にしたお化け屋敷があった。
「もう少し休んでから……じゃなくていいや、もう。行こう」
坂田さんは諦めたという顔で付き合ってくれた。
感想を言うと医療の知識のある人が作ったのだろうなという印象で、演出も人形もリアルで面白かった。一番行きたがっていた雨宮さんが真っ先にリタイア用の扉へ向かったのが滑稽だった。彼女曰く「苦手なのに行きたくなってしまう」らしい。そんなもの好きな方もいるのね。
「さて、皆さん閉園の時間ですので中央の広場まで集まってくださーい!!」
緋衣さんに呼ばれて、めいめい遊びに出ていた九人が集まった。佐伯さんは最後まで遊べなかったらしい。
「いやぁ、今日は弾けちゃいましたねぇ!」
両ひざに新たな傷を作った宮野さんが笑う。君はいつも弾けちゃっている気がする。
「日頃の疲れとか、心に溜まってるものをすみっこの方へよけることくらいはできたのではないかなと思います。
起きたらまた、新しい出会いがあると思いますが、皆さんなら付き合っていけると信じていますよ」
緋衣さんが全員に笑いかけると、突風が吹いた。あまりの強さに、皆が目をつぶる。
「それでは、また明日【まどろみの宮】にてお会いしましょう」
真っ暗闇の中で緋衣さんの優しい声だけが響いた。
「おはよう。メイちゃん」
起床して、すぐに身支度を整える。今日は高校で小テストが三つあって、塾で小テストが二つある。そそくさと家を出て、いつもの時間の電車に乗る。昨日買ったコンビニの総菜パンを食べながら、教室で自習をする。
「おはよう」
「おはよう」
八時を迎えてだんだんと集まってくるクラスメイトに笑顔を振りまきながら、この無理に体があとどれだけ耐えられるか考えた。
緋衣誠からひとこと
「やりたいこと」を見つけるの大変ですよね。「やりたい」と思って始めたはずが苦痛になっていたり、ふとした瞬間に今まで積み重ねてきたものを見失ってしまったり。そういう苦い経験や虚無を味わってきた人って多いのかなと思います。
でも、なんのためにとか、意味を考えるよりも、明日「やらなくていい」と言われても「やろう」と思ったものが最終的に糧になる印象がありますね。反対に恋しくならないことを粘って続ける能力も大事だとは思いますが、辛いなら「いつでもやめてやる!」という気概を持つことも重要だと思います。私見ですが。
……「やりたいこと」難しいですね。
タイトルのイラストは、染井吉野さんに描いていただきました。ありがとうございます。