こんな小さな身体に世界を詰め込んで何になる?
喫緊の問題として、私の目の前には二つの選択肢があって、それは就職するか大学院にいくかという言葉にするとどうも月並みになってしまう選択肢である。今まで数十年間の日本人たち──特に日本の大学を卒業した日本人──がぶち当たってきた壁というか人生の山場というか、とにかく何らかの人生におけるチェックポイントに、今の私はいる(らしい)。ある人が親切心から述べたことには、多くの人たちはそういうことに何ら疑問を抱かずに、目の前の事態に対処するらしい。たとえ疑念をもったとしても、それはその枠組みの中であり、その根底の事象自体にquestionを突き付けることがないのだと言う。「人生とは何か」とか「生きるとは何か」などの類の疑念は持たないほうが当然物事はうまくいくだろうし、私だってそういうことを考えないで行動することはできる。ただ、そんな「人生」が「本当に」「良い」のか。私はそう考えざるを得ない。ある種の病気に憑かれていると思う。
少年易老学難成
過去の記憶・思い出を振り返って再構成したものが、瞬間の契機で、すべて壊れてバラバラになってしまう。それでも過去は変わらず過去であり、現実はどこまでもリアルなものなんだ。このことをありありと気づくのに私は時間がかかりすぎてしまった。少年易老学難成は中学校でならったのに、その意味を今ようやく理解した。いや精確に言えば、少年易老だけ理解できた。
少年は老いやすいという簡潔な言葉の中に、どれだけの含蓄があったのか知らなかった。万人等しく老いていく中で、少年だけ老いやすいと言われる意義と理由はどこにある?老人も同じくらい老いやすいことをなぜ考えなかったのだろう。「万人等しく老いていく」というunquestionableでscientificな事実が、もしかしたら真実ではないのかもしれない。じゃあ真実って何なんだよ。人によって老いていく速さに違いがあるとでもいうのか?もしそうなら、それはどう検証し、どう確かめるかをお前は知っているのか?ここまでいくとなんだか馬鹿々々しく感じられるし、そんな方向へ考える人は実際馬鹿だ。
こうして少年について考えることができるのは、もはや私が少年でなくなったからであって、そのことに気が付いた昨日の明け方、私の過去はすべて壊れてバラバラになった。
毎日人が死に、争いが止まない世界は生きるに値しないのか?
高校生がライブ配信しながら鉄道に飛び込み、中学生が人間を死に導き、地震や土砂崩れで人がいとも簡単に死に、爆撃や銃撃で要人が暗殺される。私の眺める世界が悲しすぎるのだろうか。でもそのように死んだ彼らの中に自分の愛する人がいたら、知っている友達がいたらと考えると、どうも悲しまずにはいられないのではなかろうか。まだ人生の半分も生きていないから経験していないだけで、隣席の学生がいつ死ぬか知らず。原爆で死んだ、あるいは神風特攻で死んだ人に毎夏同情しないわけなかろう。
当然対象は人だけでとどまるものでは無い。インド思想を少しでも齧れば、自分は全てで全ては自分なんだということが不思議でもなんでもなく、純粋な真実として浮かび上がってくる。インド思想や仏教を宗教とみなし、端的に非科学的で悪いものだと考える人は、自分は科学を信じていることにどうして気がつかないのか。科学の根底は一種の宗教であるということも最近はじめて知った。
万物が毎日「死ぬ」というこの世界──強いて格好つけるならば生老病死の苦しみのある世界──を生きるに値しないと言ってしまうのは、幾分かもったいない。もったいないというのは、まだ「死」を手札に取っておけ、それを性急に選ぶものではないということである。世の中には楽しいこともあるよ、なんて能天気なことを言うつもりはない。「あなたが虚しく過ごした今日という日は、昨日死んでったものが、あれほど生きたいと願ったあした」(『カシコギ』)。朝聞道夕死可矣(『論語』)。未知生焉知死(同)。梵我一如(ウパニシャッド哲学)。魂の配慮(ソクラテス)。死への存在(ハイデガー)。なんでもいいから生を知ろうとしないか。