奢り奢られ論争
ある界隈を賑わせて止まない、「奢り奢られ論争」について、私見を述べたい。
始めに、まずは私のスタンスを述べよう。まごう事なき「奢り」派である。割り勘派の主張が理解できないわけではない。割り勘派の狙いや深層心理も理解した上で、主義信条として奢り派を、自分の意思を持って選択している。社会がそれを求めているからではない。奢り派のほうが、社会的な不幸が減ると、ある時代に行われた壮大な社会実験結果から、私自身が思っているからである。
結論から言おう。割り勘派の狙い、は、突き詰めると、恋愛市場における甲斐性力の無効化、である。もっと言えば、自信の無さの、補填、である。私はそれを支持できない。
割り勘派の皆さん、まあそんなに血気盛んに虎視眈々と反論しようと構えずに、一緒に男としての情けなさに向き合おうじゃありませんか。私だって、奢られることがさも当たり前と主張されている女性に対して、人間的な嫌悪感がないかと言われたら、まあそれはある、と答えてしまうのですから。
先に断っておくが、まず良くある誤解というか、論調として、女の人の方が綺麗にするのにコストがかかっているのだから、というものがある。はっきり言おう。関係ない。主張の正当性を必要性から諭そうという試みであるが、残念ながらズレている。着物屋の店員がめちゃくちゃ良い生地が使われているのを見せて、お客が買わないと言った際に、これは最高級素材なんですよ(だからこれぐらい支払って当然なんですよ)、と言うようなものだ。コストが掛かっている事と、相手がそれに価値を見出すか、に直線的な関係性はない。
もちろん欲しがってくれる人が増える、あるいは買って欲しい人に対して、適切な訴求点になるように、良いものを使う、というのは全く間違いではない。上述の話は然るに、相性、需要と供給の面で合っていないという話なだけだ。整形したホストがバキバキに決めたブランド物を身に纏った結果、顧客からたくさん貢いでもらえるのは、その容姿やまとうオーラに需要があるからだ。社会通念上そうだから、ではない。刺さらなかったら違う顧客を探すべきなだけで、その主張を全社会的に通念として通そうとすることには流石に無理がある。
じゃあなんで、相性とか需要と供給の話なのに、逆を言えば、一部の男性は割り勘が正しいと、本来あるべき姿だと主張しているんですか?という疑問が湧くだろう。それは冒頭に述べた「恋愛市場における甲斐性力の無効化」を目的にしているからだ。経済力、としていないのは、必ずしも稼いでいる人が奢り派、ではないからだ。本質は、頼り甲斐、があるかどうかだ。
割り勘派の男性は、さもそれが平等であるかのように謳って正当性を示すが、真意は異なる。自信がないのだ。どっぷりと寄りかかられた際に、期待に応えられなかった際に、失望される自分の姿に、到底堪えられないのだ。向き合わずに、論点をすり替えて、さもそれが正しいかのような論調で、自己欺瞞があることに薄々気づきながらも、それでしか補えない、自信、がそこにある。
さて、その自信の無さをその虚構で補ってしまったらどうなるだろうか。おそらくそこで成長は止まるだろう。自分の不甲斐なさに打ちのめされて、それでも発奮するような場面は、今の自分を正当化した人間には訪れない。
もちろん、始めから裕福な家庭に生まれ、経済力を惜しみなく行使できる人々との格差を目の当たりにして、それでもなお立ち向かう勇気を持てというのも、酷な話だということはわかっている。認めたくないし、納得なんてできやしない。そういった前提のズレが本来あるにも関わらず、十把一絡げに一律に、奢る人が素敵、奢って当然、なんていう文化を、認めてしまったら、これまで自分なりに必死に生きてきたことはなんなのかと、行き場のない思いが湧き出るのは、私も同じだ。
そこまで気持ちがわかるのになぜ奢る派に居るのかと言えば、競争こそが豊かさの源泉、だと考えているからだ。敢えて恋愛「市場」としたのも、そこに競争原理が働くという事を伝えたかったからだ。競争がない世界、つまり共産的な社会がどうなったかと言えば、数千万人規模の餓死者を出した挙句、本来救いたかったはずの社会的弱者に、とんでもない屈辱と苦難を強く結果となったのは、世界史を学んでいれば知っているだろう。夫を不慮の事故でなくし、生きるために手を出した何かによって、幼き子を残しながら、公開処刑でこの世を去った女性が居る。そんな不幸な社会に向かう事に比べれば、我々に訪れる矮小な理不尽さなど、どうという事はない。
だから私は、甲斐性力を無効化する声には賛同できない。我々はあくまで競争にさらされて、社会が豊かになる原動力になるべきだ。どんなに理不尽に感じても、どれだけ苦虫を噛むような思いをしても、歯を食いしばって踏みとどまりたい。我々が永久に逃げてしまったら、そこに残るのは、貧しく、想像以上に不幸な社会だ。競争は一時的な敗北を伴なうが、社会全体でみれば健全な進捗が伴う。その方向性だけは、誤ってはならない。
男性読者は、結局全部俺らが担わなきゃいけねえのかよ!と思っただろう。その通りだ。でも「俺ら」だ。恋愛になると事完全個人プレーで、選び選ばれる段階になればどうしても「一人」にはなる。でも、奢る原資、は、厳密には、一人で生み出しているわけではない。所属する、あるいは関係する、何か、によって生み出されている。自分自身に責任がないとは言わないが、自分一人だけで担う何かでもない。方法も仲間も、きっと存在するはずだ。
平等さを声高らかに叫ぶことで、自分の意気地の無さを隠していないだろうか。一緒に向き合ってみないか。それが豊かさへの答えだと、私は信じている。