見出し画像

90年代の映像産業。その体験を回顧する②


 ときは2003年から2007年ごろ。福岡県のとある地方の記憶。
 
 とある晴れた週末の午後。田畑。水田。雑草が繁茂し、足を踏み入れる余地のないほど荒廃した耕作放棄地。その隣には、水田や田畑であった土地を分譲した住宅地の、真新しい戸建住宅やアパート、マンションが点在していた。分譲地を抜けると、ふたたび水田や耕作放棄地、それに建設機械や産業廃棄物の集積所が点在する空間に戻る。

 道路はアスファルトで舗装されているが、それは徒歩移動ではなく自動車を利用した移動を前提として整備されたものだろう。歩いていても、すれ違う人物が殆どいなかった。自家用車やトラックの往来は多かったが、乗車している人物の顔は見えない。「顔が見えない」ことは分譲地も同じで、友人を除けば住人の顔が見えないし、人が生活している気配が感じられない。生活の音が聞こえない。人の往来や生活の音が見当たらない、田園の真ん中に点在する分譲住宅地。
 本当に誰かが住んでいるのだろうか。当時は言葉には出来なかったものの、直観的にはそう感じていたのかもしれない(この意味付けも記憶の改ざんと言えるか)。

 会話の相手は、家族と学校の関係者(同級生、上級生、下級生、教師)に限られる。友人や恋人が出来るかどうか、それは家庭と学校を往復するだけのムラ社会の政治力学しだいである。同級生、上級生、下級生の誰もが、派閥抗争とマウント合戦の合間、いかに人的ネットワークを構築~維持~強化するかに必死だった。誰も精神的な余裕がない。

 過重である受験勉強や部活動と縁のない男女は、学校が終われば友人たちと家に籠ったり、カラオケやボーリング、それかパチンコとスロットに興じる。この時間は教室の延長に過ぎないので、派閥抗争とマウント合戦の緊張感はつづく。

 それらが同じ空間のなかに混在する奇妙な生活空間は、いま思えば充分な都市計画が機能した結果とは思えない。経済の成り行きと、場当たり的な開発が形成した生活空間であった。気まぐれにVシネマと心霊動画などレンタルすれば、暴力が渦を巻き、悪霊の出没する風景(ロケ地)が生活空間とそっくりである。

 テレビドラマは東京の中心地でロケーションされ、住心地のよさそうに演出される。そんなテレビドラマの俳優たちの存在感と風景は、日本のようで何か別世界の話に思えた。Vシネマと心霊動画はそうではない。いま住んでいる場所と似たような風景で銃撃事件が起きたり、悪霊が現れたりする。

 心霊動画によくある「限界ニュータウン」の風景を見るといまでも、不気味さ、不吉さ、歪さ、凶暴な何かが、巧妙に隠されたり姿を消したかと思ったら、あるとき不用意に見えたりする気がして、落ち着かない気分になってしまう。

 そのような生活空間の一角。カラオケボックスやボーリング場、パチスロ店や家電量販店、大型のリサイクルショップといった、いわゆるロードサイド。その一角に店舗を構えていたのが、開業してから時間が経過した、中小規模のレンタルビデオ店であった。

 地方のロードサイドに点在していた、レンタルビデオ店に特有の空気感。ハリウッド大作が並ぶ新作コーナーは、テレビのゴールデンタイムの延長線上に位置していた。そのコーナーを抜けて、作品のカラーに応じた意匠のデザインにパッケージされた国内外の映画のタイトルが並ぶ旧作コーナーに足を踏み入れた途端、住んでいる土地の時間や空間の軸が歪むような錯覚を覚えた。

 大手映画会社が公開した大作やテレビドラマが旧作となったビデオはまだしも、発売されて相当な時間の経過したビデオはジャケットの色が褪せ、パッケージデザインは発売当時のセンスそのまま。まるで映画ごと過去の時間が凍り付いて物質化した代物のようであり、足繁く利用する住民たちに忘れ去られた存在でもあった。

 その大量の旧作コーナーの山のなかに、ゴダール『ワン・プラス・ワン』(中身はゴダールの意に沿わないヴァージョン)、キシェロフスキ『デカローグ』全巻、ミニシアターが席巻した当時に公開された香港映画や台湾映画、ジョージ・A・ロメロのリビングデッド三部作、今となっては視聴が困難となった黒沢清のVシネマなどが混在していた。店舗によっては、一時期は封印作品となっていたエドワード・ヤン『クーリンチェ少年殺人事件』の上下2巻があったりする。外国映画の戦争映画のコーナーには、長大なベトナム戦争のドキュメンタリーシリーズが全巻、ビニールで1セットに梱包されて置かれてある。

 『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』はパブリックドメインであるため、発売時期も会社も異なるパッケージで発売された物がゴロゴロしていた。CICビクターのソフトは、再生するとロメロ『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『ザ・クレージーズ』『マーティン』『ゾンビ』の英語版予告編が何ら予告もなく始まって終わる。ソフトと無関係な映像が、唐突に始まって唐突に終わる際のインパクトは大きかった。ありゃ一体なんだ?と。

 数本が並んだ『2001年宇宙の旅』をレンタルしても、もれなく画面が見切れているバージョンが混じっている。ビデオソフトが画面比率を守らないことで悪名を馳せた時代のものが、後に発売されたソフトと混ざっていたわけだ。ババを引いてしまった、半分しか画面に収まっていない木星探査船の映像を観たとき、そう思った。

 勿論、ロメロや黒沢清のVシネマにはケバケバしいパッケージデザインが施され、何処の誰が、いつの時代に製作したのかも分からない正体不明のビデオソフトのパッケージデザインと相性がよく、保護色と化して見分けがつかなかない。

 華やかで明るい雰囲気に包まれた、評価や人気の高い外国映画やテレビドラマのコーナーと比較したとき、アニメと特撮を除いた日本映画やホラー映画の旧作コーナーは、いわく言い難い、暗くて禍々しい雰囲気を醸し出していた。東映やくざ映画のパッケージなど、いまとなっては大阪の新世界でしかお目にかかれない場末感を醸し出す。そんなとき、テレビのゴールデンタイムの番組は東京の表参道の延長線にすら感じられた。いかにも田舎モノの感性であると思う。

 たとえ店長のディレクションにより、大島渚の『愛と希望の街』から『御法度』までが一つのコーナーにまとまって置かれていたとする。大島渚が多作であった60年代の松竹やATGの諸作は、パッケージデザインがミニシアター系の諸作と比較すると貧相であり、映画を含めて「貧しい」ものに映った。リアルタイムではゴダールやルイ・マルと同じ文脈で観られていたにも関わらず、大島渚と周辺にいたATG人脈は完全に別枠として受容した。ときに同じ文脈であったとする言説を読んでも、ピンとこない。

 大体、2000年代には大島渚は完全に忘れ去られた存在であった。SNSを通じたソーシャルアクションが定着から壊滅へ向かう2023年とは異なり、政治には商品価値が、まったくといってよいほど付加されていなかった。全ての社会的出来事はリアリティと重力を欠き、真剣な思考や検証の対象とはならなかった。現在となっては信じられないほど、政治の事実は見えにくく、日本はポストモダン社会である、そう大半の人々は思い込んでいた。『御法度』の根底に流れる沈痛な感情は、大島渚が自身の位置づけを冷静に自覚していたゆえだろうと、今ならば憶測する。

 そんな日本映画のコーナーで軒を並べるタイトルには、過去の名作や傑作と、製作会社や監督がよく分からない―好事家むけの一部をのぞき、書店の雑誌媒体などで情報が手に入らない―Vシネマが肩を並べていた。アクション、ホラー、ポルノ。もしくは、それらのジャンルが混合したもの。

 小中千昭×石井てるよし『邪願霊』や、小中千昭×鶴田法男『ほんとにあった怖い話』シリーズは、そんなビデオテープの山に「潜んでいた」。適当に借りたビデオテープの中に、不気味で不可解な映像が混ざり込んでいる。鈴木光司『リング』が出版された年と同じ1991年、ローレンス・ブロックが発表した『倒錯の舞踏』では、主人公の友人がレンタルしたロバート・アルドリッチ『特攻大作戦』(1967)のビデオテープに、どういう経緯かスナッフ映像が紛れ込んでいた事に端を発してストーリーが展開していく。ビデオソフトが大量に並べられ、それらを個人が貸し出しと返却を繰り返す光景に、なにか不気味なものを感じ取ったのは日本人に限らない。

 個人が時間軸を無視して大量のビデオテープの山に足を踏み入れたとき、なにかが不吉であり、不気味であり、また魅惑的な未知の世界でもあった。ハリウッド大作からゴールデンタイムで放送されたテレビドラマが、東映やくざ映画や日活ロマンポルノ(時おりアダルトではないコーナーに紛れ込んでいた)、大量のVシネマが同じ空間に同居している。迷路のような棚を歩けば、別の時空に迷い込む錯覚を起こす。

 思えば、あの大量のビデオテープはVHSソフト黎明期の80年代初期から2003年までに発売された、ビデオソフト産業の蓄積そのものだった。YMOが「散開」した頃から約20年のあいだ、急激に変化していった日本の経済事情の反映でもあっただろう。わたしがレンタルビデオ店に足を踏み入れた途端に覚えた時空が歪むような感覚は、ソフトが発売された当時の空気をパッケージやテープの画質が反映していたことの作用か。レンタルビデオ産業が一気にポピュラーとなった、90年代の空気をたっぷりと残して。

 評価は別として、完成度の低いホラービデオが一定の収益を上げるならば、ミニシアター系列で公開された映画も同じ程度にはニーズも存在しえる。経済的な余裕のある購買層がいるからだ。

 内容がどうあれ、時間と生活費のコストパフォーマンスを心配する必要がないから、ソフトは発売されて店頭に並ぶ。2023年の現在と異なり、雇用と生活は安定し、政治経済の事実確認の問題など必死になって気にかける必要性など存在しなかったのだ。オーディエンスの耐性を試すミニシアター系列の映画も、完成度の低い未公開ホラー映画も、のんきに視聴できる時間の余裕はある。

 そんな社会的にも経済的にも安定していた時代の空気が真空パックされ、サブカルチャーのシーンとは程遠い地方の幹線道路沿いに息を潜めていた。遠い時代とエモーションへとワープするための、時空の歪んだ空間。レンタルビデオ産業はテレビ放送と一蓮托生であったのだが、テレビが様々な事情で映し出さない何かがビデオデッキ再生されるとき、秩序と安定に満ちた放送の世界が歪んだ。

 わたしが映像を観る基本姿勢を、無自覚のまま形成したのは間違いなく、テレビとレンタルビデオの映像を往復することであった。自覚的に映画館へ通うようになったのは同じ時期だが、それは荒んだ地方ではなく、都市部へと片道一時間を掛けて赴く「ハレ」だ。「ハレ」の先に待つのはゴダールの『ウィークエンド』であり、ジャック・タチの『プレイタイム』であり、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』であったりした。どれもリバイバル上映のようなもの。ミニシアターは評価と完成度は高くても、永らく未公開であった海外映画のために存在していた側面もあったか。

 わたしが体験した映像文化と音楽文化は、専ら90年代のサブカルチャーが形成したものであった。体験した時代こそ2000年代だが、90年代末には用意されていた文化的土壌であったと言える。

 だが、その時代も終わりを迎えつつあった。崔洋一や三池崇史がジャンルの枠内で暴れまわった東映Vシネマの製作は、特撮ヒーローを除けば2001年に終了。VHSはDVDへと、再生メディアの世代交代が進む。

 後年になって、様々な職業を持つ都市部の友人たちと昼間から、目的もなく遊ぶ機会が増えた。そのとき街から生活の匂いと音と言葉、無数の人々の肉体は並々ならぬ存在感を感じた。フォークからノイズまでのアンダーグラウンドの音楽が聴覚を、各国の料理とアルコールが味覚を刺激する。クラブに行けば、DJの背後にあるスクリーンにはカルト映画の映像が投影されていた。この空間こそ、音楽を中心として映画を含むアンダーグラウンドのサブカルチャーを育んだ肥沃な土地。サンプリングするレコードの値段に象徴される、経済的な豊かさに支えられた肥沃さ。

 地方からは、当時は何も生まれていない。YouTubeとニコニコ動画が普及、定着するまでは。そのとき、アニメはオーディエンスの世代交代が起き、以前には想像も出来なかったほどポピュラーなジャンルとなる準備期間に入ったのだろう。宮崎駿から庵野秀明、新海誠へと。

 ここで無責任な思い出話は終わる。しばらくは本業と調査~検証に打ち込みたい。それに今となれば、映画や音楽は何か素晴らしい社会的役割など(ほんの一部を除いて)果たしてきたのか、大いに疑わしい。結局のところ、実体のない幻想を観たり聴かせたりしたのではないか、と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?