【コドモハカセと記者の旅:アヴィニョン4日目】ポン・デュ・ガールの異邦人
【登場人物】
コドモ:長女4歳、次女1歳。
ハカセ:40代の建築史家。合理主義者。
私:30代の報道記者。転職しようか悩んでいる。
【これまでのこと】
昨年9月、家族4人でフランスを旅した時の記録(記憶)。序盤の拠点・アヴィニョンでは教皇庁宮殿で悲鳴を響かせるコドモにストレス爆発。アルル、オランジュ、ニームを巡り、それぞれに学びや刺激を得るも、子連れ旅のきつさが身に沁み、旅を無事に完遂できるか不安に駆られる。
【前回の記事】
<9>
異郷で同邦人と会えるとうれしい。それがマイナーな場所だとなおさら。
アヴィニョン滞在4日目。初日にシャワーと電気が止まるというトラブルの洗礼を受けたこの簡素なホテルに、別れを告げることを少し寂しく感じた。朝食はいつも通りハカセが作ったカスクート。十徳ナイフやプラスチックの皿を水で洗い、出かけている間に乾かすというルーチンにも少し慣れ親しんでいたが、この日は水分を拭ってスーツケースにしまった。次女を入れた抱っこひもは日増しに肩や腰に食い込み、今日は少しでも歩いてくれたらという期待は、毎朝の祈りへと変わっていた。
この日の目的は、初日に行く予定だったのを延期した古代ローマの水道橋、ポン・デュ・ガールである。日本ではややマイナーだが、ユーロ紙幣にも描かれた世界遺産。アヴィニョンでは城壁外のバスターミナルから直通バスが出ている。朝、モーニングコーヒーを片手にした通勤者らしい人々と、数人の観光客とともにバスに乗り込むと、電車よりプライベート感があって落ち着いた。
アヴィニョンから西にバスで走ること約40分。降ろされたバス停からは川も橋も見えない。とりあえず、ほかの観光客と一緒の方向に歩くことにするが、旅慣れたハカセはここで、帰りのバス停の場所をチェックすることを忘れなかった。案の定、少し離れた場所にバス停があり、後でバス停が見つからず焦るという事態を未然に回避した。
森の中を歩いていくと、観光バスが何台も停まれそうな大型駐車場に出て、次第に観光地らしくなってきた。インフォメーションセンターがある広場には、受付やトイレ、カフェテラスや土産物店のほか、ポン・デュ・ガールについての解説パネルが何枚も並んでいる。コドモのトイレを済ませている間にチケットを買っていたハカセによると、受付のスタッフの中に日本人女性がいて、ハカセを見て日本語で対応してくれたという。確かに、受付のカウンターの向こうにアジア系女性がいて、思わず「こんにちは」と声を上げ、「ほら、日本の人だよ」と、コドモにも挨拶を促してしまった。長女は「なんで日本の人がいるの?」ときょとんとしていた。
外務省によると、2022年の統計でフランスには約3万人の日本人が住む。これは日本に住むフランス人の2倍以上にのぼる。大半の在仏邦人はパリ周辺に住むが、日本から船で渡仏していた時代の寄港地であるマルセイユにも、古くから日本領事館や、日本人コミュニティーが存在した。
しかし、南仏といっても内陸の、観光地といっても比較的奥地にあるポン・デュ・ガールで同邦人に出会えるとは思ってもみず、単純に嬉しくなった。
野次馬根性で、帰国後にネットで軽く「ポン・デュ・ガール 日本人 スタッフ」と検索してみたが、ヒットしなかった。彼女はどうして、そこにいたのだろう。留学先でポン・デュ・ガールの魅力に取りつかれたとか、結婚して近くに住んでいるとか…勝手な物語を空想する。
インフォメーションセンターには、大スクリーンで解説動画を見られるシアターや、模型や人形、写真などさまざまなメディアを駆使してポン・デュ・ガールについてたっぷり学べる展示施設などが入っていた。
相当な充実ぶりにも関わらず、閑散としているのは、この情報量の多さゆえだろうか。確かに、朝から大勢訪れていたツアー観光客などは、限られた見学時間内で展示を見る余裕などないかもしれない。あるいはフランスの人々なら、学生時代に社会科見学的に来たことがあるのかも。日本の歴史遺産でも資料館や観光施設が付帯していることは多いが、世界遺産とはいえ単体の「橋」のためだけに、これほどの解説施設が設けられていることに驚く。
事前にたっぷりと情報提供して、ネタバラシした状態で臨ませようとするのは、ポン・デュ・ガール本体への自信の表れだろう。散策路を歩いて、木々の間に「それ」は見えてきた。
事前学習で得た知識もそのほかの雑念も吹き飛ばすほどの、圧倒的なスケールで屹立していた。
薬師寺東塔が「凍れる音楽」と評されるように、優れた建築はときに音楽にたとえられる。私の視界いっぱいに広がり、上にいくほど小さなアーチを連ねる3層の構造物は、天空から降ろされた美しいカーテンのように、あるいは流れ落ちるナイアガラの滝のように、静謐とも、ドラマチックとも形容できるリズムを刻んで、どっしりと大地に根を下ろしていた。
前日にニームで見た地味な古代集水場は、このポン・デュ・ガールを通って、遠くユゼスの泉から運ばれてきた水を、最終的に人々の生活に行き渡らせる場所だった。かつてこの橋を渡った水は、「デニム」を生んだニームの繁栄へとつながった。西ヨーロッパ中にあまた張り巡らされた古代ローマの水道橋が、時の流れとともに大半が消えてしまった中で、人々の関心を集めて修復と保存を施され、世界遺産として保存されることができた幸運な橋が、ここポン・デュ・ガールなのだ。
この水道橋の全景は、下から見ても素晴らしいが、どうやら少し山道を登った先に、上から眺められる場所がある模様。標高50メートル程度ならちょっと頑張ってみようと踏み出したものの、足元にはよたよた歩きの次女がいる。幸いなことに、不動明王のように座り込んでいたニームの時とは違い、目の前に坂があると反射的に登りたくなるのか、緩やかな登山道をのろのろと登っていく。丸いお尻と小さな背中を突き出して、地面に手をつきながら亀のように歩くその様子がちょっと愛らしく、周囲の観光客の見守る温かな視線がありがたかった。しかし、いかんせん、のろい。
ハカセと長女は例によって、ぐんぐん先に駆け上がっていってしまった。
私は早々に次女を歩かせることは諦め、抱え上げてその重みをバネにするようにして地面をけり上げ、一気に坂道をダッシュした。フランスに来てから高めに摂取しているカロリーを消費するのだと、ポジティブに捉える。
木々をかき分けて視界が開けると、青い空の下、目線より少し低い位置に見える水道橋が、手前からまっすぐに対岸の山を突き刺していた。その先はやぶに消えていて、虹の足元がどうなっているか分からないのと同様に、想像がつかない。全長275メートルというからには、そう遠くない場所で橋は終わりを迎えているのだろうが、なんだか古代のごとくそのまま、ニームの街まで伸びているようだった。壮観である。
ごつごつと石が剥き出た地面に、次女と座って水筒の水を飲ませた。目の前に空と山と橋の絶景があるけれど、彼女の小さなまぶたの裏には、ほんのわずかでも残像が残ったりはしないだろうか。今回、親のエゴで自我の芽生えもない彼女をこんな所まで連れてきてしまったけれど、彼女は将来、自らの意志でまたここに立つことはあるのだろうか。いや、その傍らにおばあさんの自分がいたら…?そんな日が来てほしいと、またもや夢想した。
上からの絶景を堪能した後、来た坂道を下って、あらためてポン・デュ・ガールを渡る。横幅は広いが、ここは橋の端を歩くのが正解だ。ガルドン川は青々として空にたなびく雲を優しく映し、渓谷の深緑が白い河岸とコントラストをなしている。この景色は昔から、人々の「記録したい」欲望を刺激してきたに違いなく、河岸にはホテル風の建物が橋を見守っていた。古来、大勢の人が同じ風景を心に焼き付け、絵に描いてきたのだろう。時を超えて、心のカンバスを共有するようである。
それほど長くない橋を渡り終えたら、橋自体の観光はおしまいだ。河岸は適度に整備された天然のリゾート。緩やかな斜面になっているところに座り、ランチをとる。日本で川遊びなどのアウトドア系の遊びをほぼしたことのない長女は、パン・オ・ショコラの甘い香りに誘われてくる蜂を激しく怖がって、もう少し自然に触れさせた方がいいと感じた。この旅は、コドモにとって大切な夏休みであることも思い出した。
上から眺めると静かな川と思ったが、間近で見ると穏やかながらも力強い流れがあり、カヤックのような船で川下りしていく人もいる。欧米系の観光客は、どこで着替えたのか水着姿に豊かな肉を揺らして、ざぶざぶと水に入って沐浴していた。大きな犬も気持ちよさそうに、舌を出しながら泳いでいる。確かにこれは、泳ぎたくなる。
水着は持ってきていない私たちは、元野球部員のハカセが長女に水切りを教える。久々だから調子が悪いなどと苦笑するハカセを置いて、靴と靴下を脱いで、水に入りたいと言い出す長女。ひざ下までならいいよと伝えると、こわごわと水に足を入れ、冷たいと笑った。
誰が作ったのか、浅瀬に小さなストーンサークルのような石の囲みがあり、中に水が溜まっていた。長女もしゃがみ込んで、その上に石を重ねて並べている。ワンピースの裾を濡らさないで小言を言いながら、私は長女に見とれていた。ポン・デュ・ガールを背景に、鏡のような川のほとりで黙々と石と水に戯れる少女は、どこか巫女のよう。私も少し水に手を入れてみると、それほど冷たくもない、美しい水。
手や足をタオルで拭いて、帰りのバスに乗り遅れないように出発した。何度も何度も橋を振り返る。思いきり、後ろ髪を引かれていた。2000年の間、たまに人の訪れはあったとはいえ、ただ川と森と空を友として、自然の中に立ち続けてきたこの水道橋は、これからも何千年と、変わらない姿で立ち続けられるのだろうか。いつかまた、会いに来たい橋となった。その時、もし日本人の彼女がいたら、話しかけてみよう。
バスでアヴィニョンに戻り、ホテルで荷物を受け取った。ここを拠点とした4日間に去来した苦い感情の記憶と、いつかまた来たいという希望を引きずりながら、この中世の都を離れる。次の滞在先・リヨンにはTGVで北上する。「南仏・プロヴァンス」と呼ばれる地域は、ここで終いである。
<10>に続きます。
この旅行記を書いた理由に興味を持ってくださった方はこちら↓
https://note.com/vast_godwit854/n/n98fa0fac4589
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