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【コドモハカセと記者の旅】おかあさん、距離を測る

【登場人物】
コドモ:長女4歳、次女1歳。
ハカセ:40代の建築史家。合理主義者。
私:30代の報道記者。転職しようか悩んでいる。

【これまでのこと】
昨年9月、家族4人でフランスを旅した時の記録(記憶)。アヴィニョンでは教皇庁宮殿で悲鳴を響かせるコドモにストレス爆発。2日目のアルルでは古代ローマ遺跡やゴッホゆかりの地をめぐり、「アルルの女」にも出会った。3日目はタイパ重視の強行軍。朝からオランジュで「世界一の壁」に感動した後、アヴィニョンに戻り、ロシェ・デ・ドン公園で即席のピクニックを敢行する。目まぐるしさに再び、顔が歪んできた。

【前回の記事】


<7>
なぜ、寸暇を惜しんでまで教皇庁宮殿裏手の丘を登り、この公園に来たか。展望台から見渡せる、アヴィニョンのパノラマが目当てだった。

できることならローヌ川をわたり、対岸にあるフィリップ美男王の塔や、美しい遊歩道を歩きたい。また来る機会はあるだろうか?人生の残りの時間と、死ぬまでに行きたい場所を思い浮かべると、ため息が出る。素早く写真を撮り、一瞬でもここを訪れたことを、スマホに刻み付ける。たとえ再訪は叶わなくても、記憶には残したい。再び次女を抱っこひもに格納し、丘を駆け降りた。
 
ごった返す観光客の間を忍者のようにすり抜けて、来た道を走り戻る。なんとか目当ての電車に飛び乗り、荒い息を整えているうちに30分ほど揺られ、14時過ぎにニームに着いた。
 
オランジュやアヴィニョンよりも、現代的な都会である。駅からまっすぐ伸びた歩道は幅が広く、脇には人工的な小川が流れていたり、遊具のある公園があったりして、子どもを歩かせるのにはもってこい。だが、ここに来て次女はついに一歩も歩かなくなった。膝を折って座り込んで、何度呼び掛けても地面を見つめている。


まだ自我の芽生えもない1歳児には、フランスで心躍らされるものなど、あるはずがない。だから私は、次女を楽しませることは端から考えず、とにかくオムツをちゃんと替えることと、熱を出させないことだけ気を配れば、あとは連れ回すだけだと思っていた。気持ちというものが、1歳児にもあることを忘れていた。
 
ハカセと長女は例によって、ぐんぐん前を歩いていく。オレンジ色の太陽が白い歩道に照り返ってまぶしい。初日のアヴィニョン教皇庁のトラウマをなぞるように、絶望に近い気持ちが押し寄せた。朝からの強行軍で、私の気力も限界に来ていた。
 
「おかあさん、いっちゃうよ」

動かない次女を置いて、私は本当に何十メートルか歩いていった。振り返ると、小さな次女の姿がもっと小さくなっている。はるか前方を歩く夫と長女の背中に「ちょっと待って」と声を上げた。届かないことは分かっていた。

見通しがよく、人通りもあるから、何かあればすぐ駆けつけられるだろう。ここまでなら大丈夫だろう。まだいけるだろう。

脳内でギリギリの距離を計測して歩いた。もし、悪い人が瞬間的に次女に何かしたら、守れないかもしれない距離まで来てしまった。ため息を吐いて踵を返した。
 
しくしく泣く次女を抱えあげ、鼻息荒く早歩きしてハカセ達に追いついた。道の先の噴水のあたりで、なかなかやってこない私たちを心配して待っていた長女は「おかあさーん!」と手を広げて飛び込んできた。私はこの旅で既に何度も、ひどい親になってしまっている。
 
噴水からほど近い、古代ローマ時代の円形闘技場に入った。アルルでは入れなかった闘技場だが、ニームのそれも保存状態の良さでは世界有数だという。観客の動線を意識した回廊、闘技場に向けて一歩進むたびにテンションが高まるように設計されたような階段など、建築構造としては現代のスタジアムとそう変わらない。


この高さもスマホで表現できない

回廊の随所にはビジュアル性の高い解説パネルが貼られ、絵を見るだけで勉強になる。闘技場を上から眺めると、かつでそこで闘いを繰り広げた剣闘士や猛獣の血みどろの姿、客席に反響しただろう大歓声がよみがってくるようだった。

ただ、純粋に最も心を動かされたのが、闘技場をぐるりと囲む階段状の観客席そのものだ。最上階まで上れば、高層ビルの上にいるのと同じ。私は次女を胸にぶら下げて、このロッククライミングに挑んだ。

バカンス気分を味わいたかったためとはいえ、スカートをはいてきてしまったのは完全に失敗だった。もし足を滑らせたら。スカートの裾を踏んで転げ落ちたら。胸の中にいる次女は押しつぶされるだろう。石の階段に手をついて、スカートを慎重にたくし上げながら、股関節をゆっくりと開いて、上へ上へと着実に進んだ。

無事に登り切った時は一山超えた達成感があった。スマホを取り出し、ドヤ顔で自撮りする。
 
長女は、身長よりも少し低いほどの高さの石段を果敢によじ登った。公園にあるボルダリングの遊具のように、思いのほか楽しんでいるようだ。最高層には落下防止の手すり的なものはなく、一歩間違えば裏側、つまり闘技場の外壁を真っ逆さまである。外壁を上からのぞき込むゆとりは、さすがになかった。
 
空を見上げれあ、まるでここは天然のプラネタリウムだ。突き抜けるような青空。遠くに教会の尖塔が見えた。強い風を肌に感じていると、心のよどみが少し吹き流されていくのを感じた。いつだって人間の感情は、壮大な自然や歴史の前にはちっぽけで取るに足らない。だからといって、ないがしろにされていいわけではないのだが…。

 闘技場を出ると、この日初めての「余白」が生じた。

時刻は午後3時半。ハカセの旅程表には、円形闘技場→メゾン・カレ→フォンテーヌ庭園→マーニュ塔→アウグストゥス門→古代集水場→ニーム大聖堂、と、ニームでの予定がてんこ盛りだったが、朝から街々を転々としてきて疲れていた。古代ローマ遺跡もしばらくお腹いっぱいだ。タイパ重視のハカセも無理は言わなかった。
 
闘技場に並び、この街のシンボル的存在である5世紀建造のメゾン・カレは、端正な外観を一瞥するだけで割愛した。のんびりできそうなフォンテーヌ庭園に向かうことにして、その前に腹ごしらえならぬ、冷たくて甘いモノ補充。道すがら気になっていた、ぐるぐる回るシャーベット状の、フルーツかき氷を溶かしたような飲み物で喉と心を潤し、気を取り直した。

落ち着いてよく見ると、ニームの街は現代的でアーティスティックなモニュメントが、古色蒼然とした歴史的建造物と混然一体となって、興味深い街である。風格あるリセ風の建物から、高校生くらいのティーンたちがわいわいと出てきた。子どもたちがいつか、こんな街で学生時代を過ごしてくれたら遊びに来たいなあ…。夢のまた夢を、妄想した。
 
フォンテーヌ庭園はカヴァリエの丘に広がる広大な庭園。地図で見ると近くにあるはずなのに、どこから入るのか分からない。ニーム大学近くの住宅街を迷っていると偶然、古代の集水場を見つけた。フェンスの外から眺めるだけの、小さな遺跡は日当たりが悪く、猫以外には観光客も寄り付きそうになかった。「地球の歩き方」によると、50㎞離れた泉から、古代ローマの水道橋として名高いポン・デュ・ガールを通った水がたどり着く終点地らしい。貯水槽の壁に並んだ穴から鉛管を通して街中のそれぞれの地区に水を運んでいたというから、古代ローマの技術力と生活水準の高さを示す、実はすごい場所なのだ。見た目は地味で、集客力はほぼ期待されていなさそうな遺跡だが、開発されずに住宅街に何気なく残されているということがフランスならではと思った。


住宅街にさりげなくあった古代集水場


 
集水場を通り過ぎるとすぐ、フォンテーヌ庭園に入る階段を見つけた。裏門らしく、ここも観光客はほぼ見当たらない。ベンチに腰掛ける人や、ランニングをする人とすれ違いながら木々が生い茂る小道を進むと、突然視界が開け、風光明媚そのものの「庭園」が現れた。
 
天然なのか、それともワイルドさや古代風を演出しているのか。むきだしになった石の壁面にエキゾチックな樹木が絡み、大理石の建築と自然が効果的に融合して、水と緑豊かな神話的な空間を生み出していた。小川が流れるように丘に沿って蛇行する小路をたどると、服を脱いだ若い男性二人がベンチでくつろいでいた。長女がそばを通るときはちょっとドキドキしてしまう。古代ギリシアの彫刻を思い浮かべた。



 
ニームは織物産業で栄え、「デニム」の生まれ故郷としても知られる。最盛期の18世紀には街中で数々の建設事業が行われ、フォンテーヌ庭園は最も大規模な事業だった。古代への憧憬と、どこか退廃的な享楽性が漂う。

庭園の中を正門の方へ向かうと、本当に古代の神殿らしき建物があった。と言ってもほぼ、廃墟である。

詳しいことは分かっていないが、このあたり一帯には、古代ニームの先住民の人々が信仰していた聖なる泉もあったと伝わるそうだから、神殿らしい建物はその名残なのかもしれない。なぜか解放感でいっぱいになって、建物の中庭を無邪気に駆け回るコドモを、少しひやひやしながら見守った。隣り合っている同じような建物は「崩落の危険アリ」らしく、立ち入り禁止になっている。

 
大きな噴水を虹が彩っていた。織物産業に不可欠な水は、古代から街の生活と繁栄を支え、信仰と芸術の対象でもあった。ふと、さきほどの地味な集水場や、次女を一瞬置き去りにした、ニーム駅前の水をたたえたモニュメントを思い出した。

この街の水はいつの時代も、人間の営みや感情も、見守ってきたのだろう。
 
いつの間にか、タイパを意識することは忘れていた。
 
朝、オランジュの凱旋門で私たちを迎えた太陽は、昼にはアヴィニョンでランチをむさぼる私たちを燦燦と照らし、今また、ニームの円形闘技場の後ろから、夕日となって送り出そうとしてくれていた。

「帰りの電車には間に合うように、そろそろ戻ろう」

ハカセに促されるまで、少しぼーっとしていた気がする。
次女はハカセに肩車されて、私は長女と手をつないで、ニーム駅までの道のりを歩いた。

電車に乗り、いつしか「帰る場所」になっていたアヴィニョン・サントル駅で降りて、教会の脇の小路にあった小さなレストランで夕食をとる。コドモは疲れ切って、食べずに寝ている。翌朝の朝食と水をカルフールで買って、南仏最後の夜を迎える。


<8>に続きます。
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