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贖罪の山羊/小学生のいじめを目の当たりにして

▫️日常に潜むスケープゴート▫️

昨日の出社途中だった。

小学生の集団登校の列に出くわした。で、男の子が5−6個のランドセルを担いでいた。何かの罰ゲームかと思ったのだが、後ろにいた2人が乱暴な言葉を発しながらその子の背中を蹴り続けていた。罰ゲームにしては度が過ぎていた。
私がすれ違うかどうかの手前でもう1回蹴られ、その子はよろけて倒れた。ランドセルの中身がぶちまけられた。2人の罵りは激しくなった。私は自転車から降りてその子に声をかけた。怪我はないようだった。

「捨てたれ、そんな小汚いランドセル。」

他の子らがいる前で、私はまぁまぁ大きな声で悪態をついた。

▫️蒸し返された苦い記憶▫️

小学生だった頃、私はいじめられた。そしていじめる側にも回った。
私はかなり田舎の生まれで1学年が10人程度の小学校に通っていた。不思議なことに半年は誰かが除け者にされ、次の半年はまた別の誰かが除け者にされた。不謹慎な言い方だがいじめのルーチンができていた。いじめられたし、いじめる側にも回ったとは、つまりそう言うことだ。

どこで勢力図が変わったのだろう?当時は全く考えなかったが、今思うと不思議だ。
いじめる側のリーダー的な存在の奴が次第に横暴になりはじめ、だんだんと周りが苛立ち始めたからか、リーダーが次のいじめられっ子になることが多かった。それまで「あいつ無視な。無視せんと村八分な」と言っていた奴が翌月には無視されていた。

中学生になり高校生になり、同級生それぞれに新しい友人ができていった。様々な価値観に触れる中で皆、異様な小学生時代に自覚的になったのだと思う。小学生時代の同窓会は一切開かれなかったし、小学校を卒業して街で偶然会っても高校で同じクラスになっても、私を含めて皆それぞれどこかよそよそしかった。

いじめは、小学生ゆえ露骨だと思う。昨日のランドセルの子と接してそう思う。
そして大人になった今でも至る所にそれは存在していると思う。
私の職場にも、担当していた顧客にも、小学生時代ほど露骨ではないにせよ、わかりにくい形で確かにそれを感じる。

例えば元職場では、会議中に誰かを吊し上げるのが慣習となっていた。
大体のコールセンターでは顧客満足度やNPSに目標値を設けている。元職場もそうで、これに未達だったチームを担当していたSVは会議が毎回憂鬱だった。私もそうだった。他SVの前で叱責されたからだ。
叱責というより吊し上げだった。他SVの前でガン詰めされる。なぜなぜ分析が始まって、答えられないと「何も考えていない。考えないのか、それとも考えられないのか?」と更に追い討ちがかかった。

SVの中から傷病休暇を取得する人が出ても会議の形式は変わらなかった。

皆の前でガン詰めされるのは決まってクライアントの前で大ポカをやらかした人だった。もちろん数値も冴えなかったのだが、他SVが担当しているチームの方が酷い数値であっても、不思議なことに彼らは見逃された。見逃された者たちの分も、以前から目をつけられていたSVが叱責された。
吊し上げられるSVはたまったものではないが、他のSVは少なからず安堵した。難を逃れたもの同士、奇妙な連帯感も生まれた。普段話さないだろうというSV同士が会議終了後に和気藹々と喫煙所でだべるのだ。

しかし、わざわざ皆の前で叱責することに意味はあったのか?
あの会議の問答は全て育成のためだったのか?

似たような疑問は別のシーンでも感じる。
わかりやすい例は、ちょっとした言い間違いに対して30分以上説教をする顧客や、教養がないなど宣う顧客。対応者が口をつぐめば激昂する。黙っていれば済むと思っているのか、それは社会人としてどうなのか、と。彼らはそれを「育成」と称する。

稀にそういった顧客の宅に訪問謝罪に行くが、彼らの多くは家庭に問題を抱えている。親の介護で疲弊している。奥さん、旦那さん、子から抑圧を受けている。だから私は彼らの言う「育成」を信じない。他人を育成してる余裕なんかあるように見えないからだ。

いちいち言葉にするのも野暮な気がしているが、他人を虐げることで満たされるのは性(さが)なのかも知れない。自身を取り巻く環境が厳しくなればなるほどその傾向が強くなる。他人から抑圧されればされるほど、とも言えるのかもしれない。

それは私にも、あなたにも、もしかすると昨日のランドセルをぶちまけた子にも、育成に熱心な顧客にも備わっているのかもしれない。

訪問謝罪とは名ばかりで、決裂するために顧客宅に伺ったことがある。

決裂する場合のパターンは大体決まっている。

一通り顧客の主張を訊く。基本こちらが積極的に質問しつつ傾聴する。そのうちこれは詰問に変わる。途中声を荒げられることも多々あるが、動じず、むしろ「なぜ声を荒げたのか?」を訊く。

キリがいいところで書面を渡す。
書面には今月限りで契約を解除させていただくこと、また電話して来て社に害を与えてくるなら法的処置も辞さない旨が記載されている。
相手が読み終わるのを待ったあと、どういった経緯で発行するに至ったのか、顧客により被った損害を定性的に伝える。すると大体の顧客は「数値は?」「定量的なものはないのか?」と言う。

私はなぜ定量的な情報が必要なのか、問う。
これも大体、顧客からどう回答されるかは決まっている。マナーだろうとかビジネスだろうとか、そういう回答をされる。呆れ顔で。

回答を聞いて私は「わけがわからない」といった顔をする。それこそ定性的な主張だと思っていることを伝える。だから定量的な話はしないことも。あと、前々から思っていたが、あなたに理由を尋ねてもまともに回答されたためしがないと、こちらも真剣に考えているため根拠や理由を考えず要求しないでいただきたいと伝える。

揚げ足取り以外の何物でもないが、発端は誰だったか。顧客から非難される筋合いはない。怒り心頭している顧客の話を遮って、「怖いので」と伝えて引き上げる。

顧客に強い劣等感を与えたと感じた帰り道、なぜか足取りは軽い。

▫️厄災の街▫️

ある時代のある街の話をする。時代は中世で、場所は確かヨーロッパ圏だったと思う。

その街では住民同士の諍いが絶えなかった。
その街は経済的に困窮していた。仕事がなかったからだ。土地は痩せ細っていて、農地と言える農地はわずかだったし、1年のほとんどは冬だった。だから作物も育たなかった。農業は栄えなかった。
仕事らしい仕事といえば役所から発注されるインフラ整備だった。街道を整備する、ダムを作る…こう言った仕事が役所から降りてくるものの、それでも仕事を必要とする住民全員が実際に仕事にありつけるわけではなかった。

だから必然的に住民同士が揉めた。

経済的に困窮すればするほど人は他者に攻撃的になる。
日々食い繋ぐのがやっとだった人々は、限りある仕事を奪い合った。我先に受注しようとしたし、確実に請け負うために他者を蹴落とした。他者のネガティブな情報を流したし、それが事実であれデマであれどうでも良かった。

諍いはやがてヒートアップしていき、とうとう暴力沙汰になり、実際に死者が出るまでに発展した。
負傷者の治療をした医師は現状を嘆いた。そして奇策を講じる。

医師は役所に掛け合い、全住民を広場に集めた。そして皆の前に盲目の浮浪者を1人連れてきた。医師は言う。

〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇

皆の諍いの原因はこの浮浪者である。この浮浪者こそが皆に嫉妬心と攻撃性を与えた張本人である。
なぜなら、皆は心を殺して他者を蹴落とし、なんとか仕事を得る。そして必死で働き、ようやく数日食い繋ぐだけの賃金を得る。
対してこの浮浪者は何も努力せずとも物を与えられる。心を殺す必要もないし汗水垂らす必要もない。ごく一握りの富を得たものが情けをかけるからだ。

皆の攻撃性や同じ境遇の者同士の諍いは、つまりはこの浮浪者への嫉妬から来ている。浮浪者に、聾唖者に怒るのは道徳的に許されない。だから他の者に当たるのだ。皆の怒りは、紐解けばこの者への当てつけなのだ。
だから、この浮浪者の命が潰えれば争いはおさまる。これ以上死者も出ない。
嘘だと思うのなら石を投げろ。この浮浪者の命が消えるまで、石を投げ続けろ。

〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇

医師が話し終わって数秒、誰も動かなかった。理解が追いつかなかったし、理解しようにも、医師の論理が破綻していることは、ほとんどの住民にとって明らかだった。

しかし彼らには鬱憤が溜まっていた。日頃の諍いの吐け口が必要だった。攻撃できるのなら誰でも良かったし、理由はどうでも良かった。
やがて1人の住民が痺れを切らせて石を投げ、浮浪者の顔面に直撃したことをきっかけに事態は動く。
浮浪者は痛みのあまり大きな咆哮を上げる。石を投げた者の方を向き、歩き始める。
広場に集結したほぼ全員が危機を感じ、石を投げ始めた。浮浪者は血を流し続けた。やがて医師の思惑通り、失血により浮浪者の命は潰えた。

その後住民同士の諍いはなくなり、束の間の平和が訪れた。


▫️贖罪の山羊▫️

どんな集団にも程度の差こそあれ責任を押し付けられる者は存在するのかもしれない。それは生贄と呼ばれ、スケープゴートと呼ばれる人たちだ。先述した神話に出てきた目の不自由な浮浪者であり、かつての職場の同僚である。それは、かつての私であり、昨日のランドセルの子だ。

いじめにしても、結局はスケープゴートに近いと思っている。例えば数学の成績が悪い子がいじめられたとする。ただ単に成績が悪いから馬鹿にされた、それが発展していじめられたとも捉えられるし、他の全員も数学の成績が芳しくなく、彼らは親や教師から叱責され、そんな自分たちの劣等感から目を逸らすために一番点数の悪いやつを槍玉に挙げたとも捉えられる。
知能指数、容姿、運動能力、出来不出来、これらに劣等感を感じた人たちは、それを自分より劣っている人に投影する。そして虐げる。時には集団で。

責任や劣等感を押し付けた集団は妙な連帯感を得る。ある種のカタルシスを得る。
押し付けられるのは大体の場合1番浮いている奴だったり、社会的地位が低い人、少数派だったりする。

それが悪いとか非難するつもりは毛頭ない。そんなこと私は言えない。
しかし思うのは、こういったことに無自覚な人が多すぎることだ。
だから罪悪感を持たずリンチできるのだろう。楽しんでリンチできるのだろう。私たちは畜生の一面を持つと思っている。

脳みそお花畑の畜生に負けるな。

昨日の小学生に伝えたかったのはこういうことだった。
絶対に伝わらないと思う。だから書いた。


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